ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想5『木曜組曲』・『プラナリア』

 

 さあパート5だ! こんにゃろ!

 今回は前置きを抜きにしていくぞ! こんちきしょう!

 

* ネタバレにご注意ください!

 

12. 恩田陸木曜組曲』(徳間文庫)

再読したい度:☆☆☆★★

 これぞ静かで奇妙な恩田陸ワールド。五冊に一冊は彼女の作品を読まずにはいられない体となった私だが、これでまた少し生き長らえるというものだ。

 数年前のある木曜日、大人気作家の女が自宅の洋館で不可思議な薬物死を遂げた。女の親類で作家の女性四人とかつて女を担当した女性編集者は、年に一度木曜日に洋館に集まることになっていた。ちょうどあの日も、そして彼女が死してなおも──。

 この話には五人の女しか登場しない。洋館に集まった女たちのやりとりを通して、あの日の各々の思考行動が回想され、次々と隠された真実が明かされていく。ある日の一洋館のみを舞台としているだけに、展開に劇的な動きはない。だが、その時空間的な制約の中でなお、緊迫感があって惹きつけられる物語が精巧に組み立てられており、ぞっとするほど素晴らしい。

 とうに女は死んでいるにもかかわらず、五人はいまだに女の影に怯え、囚われ、振り回されている。もう「死せる孔明生ける仲達を走らす」どころの話ではない。五人も走ってしまっている。いや、孔明は仲達を通して魏の軍全体を動かしたのだから比べ物にならないか。それはともあれ、女に恐怖しているというのは共通であるものの、五人は別の人間であって当然考え方が異なり、女との関係性も違った。その相違性を背景とした各々の心情描写が秀逸で、また視点の切り替えも円滑でわかりやすく、学ぶところが多い作品だった。

 

13. 山本文緒プラナリア』(文春文庫)

再読したい度:☆☆★★★

 再読シリーズ。表題作を含む全五話が収録されている。表題作の最後の展開だけを漠然と覚えていて「うわ、そうきたか。でも主人公の女にちょっと共感できるな」と思った記憶があった。そして読み返してみて、驚くべきことに共感できなくなっていた。

 主人公は乳がんを患った女だ。手術は成功したものの、定期的に病院に通わなければならず、また病気を契機にはたらく気力も失い、女は日々を漫然と過ごしている。女は元来卑屈だが、今はそれに拍車がかかっているといっていい。

 女が卑屈になってしまうのはわかる。いや、本当のところは私には絶対にわからないのだろう。つらいよね、大変だったね、病気したのに偉いねなどと言われることを、女は何より嫌っていた。女はまわりのそんな態度が気に食わず「私、乳がんだから」と言いふらして周囲の人間を沈黙させ遠ざけて、社会と自分とを隔離していく。

 わかる。女がそんな言動をとってしまうのがわかる。そして女の気持ちが私には絶対にわからないこともわかる。理解はできる。しかし、共感はできない。

 一方で、かつての私が女に共感したのはわかる。友達もおらず夏休みなど自宅にこもってひと月に二十三十の本を読んでいた学生時代の私なら、女に感情移入してしまうのにも合点がいく。

 では、どうして今は共感できなくなったのか。ともに楽しくいられる友人や家族を得たからだろうか。それも原因の一つだろうが、全てではない気がする。私は主人公の女の言動をみてガキっぽいなと思った。我が強いなと思った。我が強いこと、ガキっぽいこととはすなわち大人であるというのが私の持論だ(好きな気持ちはしょうがない - ライ麦畑で叫ばせて)。これが正しいとすれば、ガキっぽい女に共感できない今の私は大人ではないということになる。ガキだった学生時代からガキっぽい大人になる過渡期にいる私は、ガキでも大人でもない何かだろうか。

 一方、友人は「大人とは許容すること」という説を提唱している。これもなかなか言い得て妙である。この考えに則れば、自分の現状を受け入れられない女はガキで、「受け入れるよりほかないだろうよ」と思っている私は大人ということになる。

 うーん、難しい! 再読によって図らずも大人について考え込んでしまった。しかしちょっとまて、「大人=ガキ」であって、「大人=許容すること」ならば「ガキ=許容しないこと」だ。すると「許容すること=許容しないこと」となってしまうではないか。これでは理論が破綻している。いや、許容も所詮は偽善。これこそが真理なのか? よくわからなくなってしまった。とにかく、今の私が主人公に共感できないのはきっとお肌の乾燥のせい。これでどうでしょう?