ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

修羅の道・北海 ──蒼天童の章──

 

 札幌に降り立って(修羅の道・北海 ──漆黒烏の章──)2日目、漆黒の烏の猛攻から逃れてたどり着いたのは、蒼天にそびえ立つ鋭利な塔だった。それは「さっぽろテレビ塔」という建造物らしかった。塔の周りには花壇が並んでおり、塔は美しい花々に装飾されて堂々とそびえ立っていた。

 塔のふもとに近づくと、ちょうど良く近くのベンチが空いた。視線を察知されないよう目玉だけをぐりぐりと動かし、敵(=カラス)の不在を確認する。そして安堵の吐息を漏らし、ようやく腰掛けた。

 しかし、安息も束の間、何やら周囲が騒がしくなってきた。

「ほらほら、あそこ」「おー、がんばれー!」「いやー、なにが楽しいんだか」

 辺りでは発見や声援、否定などさまざまな声が飛び交った。なんだなんだと隣の男をみやると、彼は前方斜め上を指差していた。指の延長線上をみる。塔の1合目か2合目あたりか。そこになんと、一人の男の子が立っていた。

 

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 上の写真の窓が二段に並んだ塔内の建物のすぐ上に、横になったはしごのようなものを見つけられるだろうか。小学校低学年くらいのその少年は、まさにこの先端付近に立っていた。写真だと塔全体の高さゆえに少年のいる場所の高度がわかりづらいかもしれないが、現場でみるとそこは大の大人が足をすくませパニックになるのに十分といえた。

 少し奥にしゃがみこんだ大人が、少年になにやら声をかけている。ややあって、少年が二、三度頷いた。そして、少年は真っ直ぐに正面を向いた。

 彼を縛ったロープ、はしごの直下にあるクッション、そして塔の下で様子を見る大人たちの異様な昂り。少年はあそこから、バンジージャンプするつもりなのだ。蒼天に立つ勇気ある童よ。修羅の道・北海の男とはなんと勇ましいことか。

「いきまーす!」と上の大人が叫んだ。

 いいぞー! いけー! 下に居る観衆たちが湧いた。あるものはビールを片手に、またあるものはポケットから取り出したスマホを少年に向けて叫んだ。その中でひときわ愉快そうに立派なカメラを構える男女は、察するに少年の親らしかった。

「──っ!」

 少年が下に聞こえるか聞こえないか、絶妙な大きさで何か言った。

「ああ!? なに!?」と直前まで愉快そうだった男女の顔が険しくなる。

「無理っ!」

 今度ははっきりと叫んだ。上では少年のもとに大人たちが駆けつける。両親とおぼしき男女は「はあ、なんだよ。やめたのかよ」とため息をついている。

「なんだよー」「あれ、終わりかい」「いいんだ、やったって意味ないんだから」

 観衆は先ほどとは打って変わって嘲笑や落胆ととれる声をあげ、中には通ぶったコメンテーターのようなおやじもいる。

 なんだろう、これは。私は言いようのない恐ろしさを感じた。あの少年は自ら「飛んでみたい」といったのだろうか? 近しいオトナに囃し立てられたのではなかろうか? もし仮に、彼が自ら手を挙げたのだとして、あの高さ、あの孤独、そして何よりあの大勢の、不用意な期待と失望は、彼の一生のトラウマになってしまいはしないか?

 修羅の道・北海で、私は「漆黒烏のトラウマ」につづき「蒼天童のトラウマ」を目撃した。私は彼の決断を称えたい。やめたっていいんだよ。そう言ってやりたかった。だが、私にはあの少年と対峙する強さはおろか、彼が降りてきたところを目撃する勇気すらなくて、足早にその場を離れ、そのまま空港へと向かうのだった。

 こうして私は修羅の道・北海を後にしたが、本当は都府県いたるところにその「道」はあって、今日もトラウマを生む試練や争いが絶えることはないのである。