ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

間違いだらけの数式

 

「朝ドラ」というものをこれまで熱心にみたことはないのだが、最近その音声をよく聞き流している。そうはいっても、ラクに英語を身につけるがごとく「朝ドラを聴き取る耳」の獲得を目指しているわけではない。私のデスクが昼休みに朝ドラをみたい人が集まるテレビのすぐ後ろにある、というだけのことだ。

 少し前までインスタントラーメンを生み出した人の物語が聞こえていた。先日、気づいたらこれが終わっていて驚いたが、何よりも驚くべきはまさに自分の脳みそなのだ。

 皆さんはインスタントラーメンの生みの親をご存知だろうか? 答えは「安藤百福」である。

 なに、覚えていたのではない。ネットでパッと調べただけだ。この「検索」という行為と「インスタントラーメン」という単語のおかげで、私の脳はビリビリと活性化した。 

 話は私が小学生高学年の頃まで遡る。西暦2000年前後、今に比べればインターネットの普及率などずっと低かった時代だ。

 頻度は高くなかったが、定期的にパソコンの授業があった。授業といってもソリティアはじめゲームをしていた記憶しかないが、あるときパソコンに詳しい他学年の先生が現れて、一度だけ授業をしてくれた。

「今日はインスタントラーメンを初めて作った人について班で調べて、発表してもらいます」とその教師はいった。

「えーわかんないよー」と文句をいったかは覚えていないが、当時の私に検索能力などあるはずもないのは確かだ。

「調べたい言葉はここに打つんだよ。打ち方は──」と、その男性教師は優しく検索方法を教えてくれた。柔和な笑顔を今でもよく覚えている。確か、安田先生といった。

 検索と発表準備が終わり、いよいよ発表の時間となった。結果として、「安藤百福」の名前とプロフィールを正しく発表した班は一つもなかった。

『インスタントラーメン 開発者』のような言葉を検索すると、嘘の情報が書かれた偽のページが一番上に現れるように、その教師があらかじめ細工をしていたらしかった。

「インターネットはとても便利な道具です。でも、そこにはウソの情報もたくさんあります。間違いだらけです。ひとつの情報を信じるのは危険ですから、どうか気をつけてください」と彼の授業は締めくくられた。

 

 この授業のことを私はずっと忘れていた。大学や会社でネットリテラシーの講習を受けても思い出しはしなかった。だが、「インスタントラーメンの生みの親」という単語で、その記憶はあっさりと、鮮明に蘇った。

 以前にも記事を書いた(日曜は中華の香り - ライ麦畑で叫ばせて)が、ある入力に対して一見して誤った出力がされてしまうことが、私の脳ではよくある。しかも、それは誤出力にとどまらず、記憶の忘却や捏造をしてしまうことさえある(追想と捏造の狂想曲 - ライ麦畑で叫ばせて)。

 今朝、一心不乱に穴を掘る老人と、その脇に立つ老婆をみた。老人の足もとには何か鳥の死骸があった。俯く老人の顔はよく見えなかったが、老婆の無表情はとても印象的だった。

 幼い頃、瀕死のスズメを拾ったことがあった。なんだか法に触れるらしいことを最近知ったが、当時の私たちは「スズメを看病して飼う」という決断した。

 父は気が乗らないふうだった。母も性格上そのはずなのだが、何故だか今朝は、母の慈しみに満ちた顔が頭に浮かんだ。父も母も反対したら「飼う」決断には至らないような気もした。

 結局、鳥のエサを調達して帰宅すると、スズメは息絶えていた。弟たちはすでに興味を失っていたようだし、私も動物の世話に熱心ではないから、父は内心ホッとしたはずだ。一方の母はどうだったろうか。捏造とも思われる母の表情が出力されたせいで、当時の彼女の心中を推し量ることは叶わない。

 

 先日は友人らと「修学旅行で〇〇に行ったよね?」という話になって、私だけが「断固行っていない」と折れなかった。私より物忘れのひどい友人が覚えているのだから不安だが、もっと不安なのは、彼らには無い旅の記憶を私だけがもっていたということだ。捏造か、はたまた別の旅の記憶とのすり替えか、実は私の記憶が正しいのか。答えは未だわかっていない。

 それからしばらく修学旅行のことが気になって、ついには「本当はどんな旅程だったろう。そうか、検索したらわかるじゃないか」という突飛な結論をしたのだからさらに怖い。だが、記憶を検索するという行為も、もう絵空事ではないかもしれないのだ。

 ニューラルネットワークという言葉を目にすると、我々もただ電子回路に支配されているに過ぎないことを痛感する。その「神経細胞の繋がり」を数式で表現しようというのが人工知能だから、私の脳も数式で再現されてしまえば、思考も記憶も容易に「検索」できるのではなかろうか。 

 我々の脳がすっかり数式で表現されたら、誤出力や捏造、忘却などはもう起きそうにない。数式が正しくなければ動かない。「生きた」脳と違って、人工物とはきっとそういうものだからだ。

 間違いのない数式は確かに美しいが、そこから愛すべき突飛な発想や愉快でおかしな勘違いが生まれることはない。だがやがて、「何パーセントの確率で〇〇程度の間違いを起こすことにする」などと、間違いさえも式に表されてしまったら? 計算された「美しき間違い」に笑う日がくるのだろうか。

人間性とは何だ」と最近友人が悩んでいる。「検索」してみると、最近は人間性=社会性で使われていることが多いらしい。だが「規範に則り円滑に」などということは人工知能の得意なところのような気がする。

 人間性とは「間違うこと」ではないか。私はそう考えながらこの記事を書いていたが、仮に間違いすらも式で記述されてしまうとなれば、もういっそのこと「人間性」も人工知能にお任せしてしまったほうが良いかもしれない。

 では皆さん、今日の授業では人工知能人間性を教えていただきましょう。そんな授業が冗談でなく開かれる日も遠くない。