ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

名は体を表すか

 

 本にしろ、漫画にしろ、映画にしろ、私はタイトルを覚えるのが好きである。

 昔は某からだが縮んでしまった名探偵が活躍する映画のタイトルは公開年順に覚えていたし、某国民的海賊漫画の単行本のタイトルは今でも六十五巻くらいまでは暗唱できる。某大泥棒三世のアニメタイトルは格好よくてみていて飽きないし、しばしばこのブログでも拝借することもある。

 ではなぜタイトルが好きなのか? これは簡単で、内容を端的に美しく表しているからだ。

 例えば、「道化の華」。これは友人に勧められた。傷つくことを恐れて道化を演じるはかない者たち。例えば、「眠れる美女」。これをみただけで麗しさとミステリアスを感じるのは、私がこれを熱心に読んだせいだろうか。

 では、内容があってタイトルがあるものなら、なんでも好きでおぼえてしまうのか? 決してそんなことはない。簡単、などということばを易々と使ってしまうと、あとになって後悔するのは自分である。なぜタイトルが好きなのか? もっと戻って、私はタイトルを覚えるのが好きだ。実はここから微妙にずれている。

 内容が興味深く心の琴線に触れたものがある。そしてそのタイトルが中身を端的に美しく表現している。これはまさに「名は体を表す」ということであるが、私はそんなタイトルを覚えるのが好きなのだ。

 その文でいいたいこと全体を象徴するように、タイトルはつけられるべきた。

 私もそれに注意してタイトルを選ぶように注意しているが、かならずしもそうはなっていないだろう。これは反省すべきところだ。

 中身はすばらしいものなのに、タイトルが練られていなくて粗末であったり、中身と整合していなかったりした場合。はじめに目に入るのはタイトルであることが多いから、本当はそれを欲しているひとのもとに届くことすらないという悲劇を起こしかねない。こんなとき、名が体を殺す。

 タイトルだけが一丁前で、中身がそれに伴わない。このブログを読む友人にそんな指摘をされたことがある。私のような拙文をキーボードにたたきつけているような者は、頭でっかちなタイトルを中身のない文に乗っけてしまって、よく名で体を潰す。

 私の場合、タイトルが頭に入っている作品は内容も印象にのこっているし、内容に感銘をうけたらタイトルを覚えずにいられない。ここには相互的な関係がある。皆さんはどうだろうか?

 まずタイトルで惹きつけて、そして内容でも魅了して、読み込ませて内容もタイトルも忘れさせないくらいものを作りたいものだ。名が体を活かし、体を名が活かす。さて、そんなものを書ける日が、私にやってくるのだろうか。