ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

幸福な言の葉

 

現状に満足しているひとは発言の必要がない、というようなことをどこかで見かけた。平穏な幸福。全くその通りかもしれない。

私がうだうだと此処に駄文を書き連ねるのもひとつの表現であり、それはおおよそ不幸や不満、それに伴う哀愁などによって駆動されるものである。まあ、ときには純粋な気づきをしたためることもあるが。

私の読む本や好んで聴く音楽は、皆何処かそういった悲しみや不平、それらに対する抗いや諦めを匂わせるものが多い。すなわち暗かったり荒々しかったりするものばかりで、ハッピーハッピー言ってるものは恐らく本棚にもプレイリストにも存在しない。

 

でも、 ご存知のように、幸せに満ちた本や音楽がこの世にない訳では決してない。最近人に勧められて読んだある人物のエッセイは困難に立ち向かうにしても前向きで希望に満ちていたし、この前コンビニか何処かで流れていた曲はそれこそ文字通りハッピーハッピー言っていた。

無論、そういった作品が悪いとか、嫌いであるとかいうことを此処に記したいのでは決してない。自分自身の表現の形式というか順序と真逆であるがために、私はそれらを好んで選択することはない、ただそれだけのことである。

幸せから何かを生み出せたらきっと最強だ。それを目にしている人もまたきっと幸せな気持ちになれるのだから。

ここでいろいろな方のブログを読ませてもらって、顔も知らない皆さんの、皆さんの知人の、友人の、家族の幸せを知ってほっこりすることも事実、よくある。幸せの連鎖。私が起源になるなどということは到底できないだろうが。

昨今流行しているSNSの原動力はまさに幸福であるようだ。いいね、その幸福、ほら、私にもこんな幸福。

今年の新語・流行語大賞にまで選ばれているのに、私がそこに踏み込まないでいるのはそういう理由だろうか。

 

人生楽しいですか? 先日、そんな会話になった。全っ然楽しくねえよ。私は大袈裟にそう答えたが、実のところよくわからない。

きっと、比べる対象がないからだ。この本とあの本ならどっちが楽しい、あの出来事とその出来事ならこっちが良かった、とは判断できるが、この人生、何と比べればよいの?

比べるということは、相対的に良いものと悪いものが生まれる。そして人間はきっと本能的に、咄嗟に下位のものに目が行って、そちらを掘り下げたり、攻撃したりしたくなるのだ。

私は絶対評価が苦手なようだ。自分というものが曖昧なまま生きているからかもしれない。そしてそれはもう、最期までそのままであるような気がする。

人生楽しいですか? 絶対評価ができる人は、そう聞かれたらすぐ、はい、と答えらえる。相対的でない幸福を原動力に、それを表現できる。

 

人生が楽しいかどうかは自分でしか判断できない。そして私の今の答えは、よくわからない、だ。実は性格がねじ曲がっているだけで、いいね、その不幸、ほら、私にもこんな不幸、と言い合って、私も結構幸せなのかもしれないが、比較対象を知らないので断言できない。

死に際になってみて、直後に訪れる”無”と比較して、楽しかったか楽しくなかったか、ようやくわかるのかもしれない。

その結論を楽しみに、と思えば、このままでいるのも悪くはないか。

 ”今歩いているこの道がいつか懐かしくなるだろう

  今歩いているこの道がいつか懐かしくなるはずだ”

斉藤和義氏の「幸福な朝食 退屈な夕食」の一節を引用して、この文章の結びとしたい。