ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

うねりの中

 

 モウロが自らの力に気づいたのは、もうずっと昔のことだ。

 荒野にぽつんと立つ枯れ木の上で、少し遠くの家々を眺めているときだった。

 ほうら、またあの二人が腕比べをはじめたぞ。あそこ、あの窓の大きな家の前だ。今日はどうやら剣らしい。弓はあのノッポのほうが上手だったが、剣では髭の男も引けを取らない。そうだ、どっちが勝つか、木の実を賭けようじゃないか。

 隣のラジールが言った。いいだろう、とモウロはノッポの男に木の実を十賭けた。暇つぶしに、賭け事も悪くない。

 お前は見ていなかったかもしれないが、この前の槍じゃあ髭の男が勝ったんだ。この勝負はいただいたな。そう言うとラジールは髭に木の実をニ十五賭けた。荒涼たるこの地でこの数の損失は大きいが、相手が出すなら仕方ない。モウロもさらに十五、ノッポに賭けることにした。

 二人の実力は拮抗していた。日が高いうちに始まった戦いは、日が傾き、白壁の家々を赤く染めてもなお続いた。二人は肩で息をしていた。お互いに剣を握る腕が下がっていた。

 睨み合いの中、ノッポが左手に剣を持ち替え、右手の汗を拭った。そのとき、結び目がゆるんだらしく、腰に巻いた布がぱさりと地面に落ちた。その布にノッポが視線を奪われた瞬間を、髭の男は見逃さなかった。雄たけびと共に、剣を両手で握りしめ、ノッポに向かって突っ込んでいった。

 ラジールは、ようし、勝ったぞ、と既に歓声をあげていた。

 モウロは焦った。これで何日も空腹はごめんだ。どうしよう、この状況。せめてこの瞬間だけでも、ノッポの動きに初めの切れが戻れば。

 足で布を蹴り上げて目をくらまし、素早く胴に切りかかれ!

 モウロは強く念じた。すると突如、自分の視線がノッポのそれになったようだった。モウロが初めて『入っ』たのはこのときだった。足元の布を、迫りくる髭の男に向かって蹴り上げる。たじろいだ髭の動きは僅かに鈍った。モウロは頭上に振りかざされた剣を睨みながら、髭の男の胴めがけて力いっぱいに剣を振った。

 家々に囲まれた広場の隅で、髭の男は小さくうずくまっていた。やがてノッポが差し出した手に掴まると、腹を押さえながらゆっくりと立ち上がった。薄暗い闇に、白壁は深い青に染まっていた。モウロの頭はずしんと重かった。くそっ、なんてこった! 勝利を確信していたラジールは、まだ唾を飛ばして叫んでいる。

 勝ったのだ。ノッポが勝ち、そしてモウロが勝った。

 密林、湿原、砂漠──。それからというもの、モウロとラジールはあてもなく旅をしては、その地に住まう人々を眺め、賭けをした。次はどっちが勝つと思う? 小虫に小魚、今度は野草を賭けようか。

 賭けはモウロの勝ちが随分と多かった。

 勝ち続けることもできたが、それではラジールが賭けに乗ってくれなくなってしまうだろうと思った。

 動きを強く念じるのだ。そうすれば入ることができる。いや、念じるというより、自分が動くつもりになる、という方が感覚としては正しいかもしれない。

 長く想定すればするほど、それだけ長く入ることができた。ただその分だけ、後に訪れる頭の重さも酷かった。

 どうもおかしい、あまりにお前が勝ちすぎる。それに勝負が決まる直前、お前はぶつぶつ何か呟いているじゃないか。聴けば、その通りにお前が勝ちやがる。

 とうとうラジールがモウロの勝ちを怪しんだ。うまく入るためには、より具体的に念じるために、呟く方が良いことにモウロが気づいてから少し経った頃だった。

 モウロは力のことを全てラジールに話した。

 じゃあこれまでの賭けは無しだろう! 

 ラジールは怒った。しかし、モウロが丁寧に謝るとすぐに静かになった。

 ふむ、まあいいさ。それにしても、そんなことができるのか。お前にできるなら、あるいは──。

 ラジールは隣でぶつぶつと何かを唱えるようにして、やがてすぐに微動だにしなくなった。次の刹那、屋根の下を歩く女が、ラジールに向かって籠一杯の果物を投げてよこした。

 それからというもの、賭けは事実上『入り合い』になった。如何に上手く、長く入るか、如何に相手の想定を超えて入るかが勝敗を左右した。賭けの規模はどんどんと大きくなっていった。個人の競技や争いに始まり、仕舞いには地域や国同士の戦いまでも対象にするようになった。綿密な想定さえすれば、複数の人間に同時に入ることも可能だと知った。しかし、勝利のために最も大事なのは、どの人間に入るべきかを見極めることだった。

 世界は瞬く間にうねり出した。町を破壊し大勝し、国を消されて大損してもモウロとラジールは賭けを止めることはしなかった。やがて、モウロとラジールの全く関わらない争いも増えていった。

 くそう、今度は負けたか!

 ラジールが頭を左右に振りながら悔しがった。その声につられてモウロもようやく戻ることができた。重い頭をゆっくりと振り、延々と続く沈黙を眺めながら勝利を喜んだ。モウロの入った男の判断で、この大陸は一斉攻撃された。あちこちで閃光が走り、妙な形の雲が立ち上り、轟音が響きわたる様を戦闘機の中で眺めてから、モウロの意識は重く暗い虚無の中を暫く彷徨っていたのだ。

 大陸には建物も動植物も、立ち上る煙すらなかった。

 これじゃあ、木の実も虫も採れはしないよ。隣の大陸に旅立とうか。

 モウロとラジールは海を渡った。途中に降り注ぐ雨は濁っていて、どこか嫌な臭いがした。下に広がる海も、これまでとは違う気がした。小魚や海藻は全く見えなかった。空腹であったが、それでも旅に支障はなかった。

 やがて辿り着いた大陸にも、人間はおろか、生物の姿は一つもなかった。モウロとラジールは崩れかけたビルの上に立つと、そこで少し羽を休めることにした。旅の疲れから、モウロはすぐにまどろんだ。あれからずっと重いままだった頭に、ゆっくりと白い光が差していくようだった。

 深くなっていく眠りの中で、モウロは力を忘れ、ラジールとの賭けを忘れ、やがて空腹も、自らの存在をも忘れていった。

 それから何度となく日が昇り、闇が昇ったある日のことだった。モウロは喧噪に目を覚ました。廃墟の鉄骨に立つモウロの隣にはラジールがいた。そして目の前には、いつかの懐かしい熱気があった。幾重にも輪を成した人々の中央で、体格の良い、ほとんど裸に近い二人の男が、血を流しながら殴り合っていた。

 何だろう。これまでずっと穏やかで良い気分だったのに。モウロは辟易した。

 丸一日に及ぶ決闘の末、瞳の大きな男が相手を下したらしかった。その男の掛け声に人々は跪き、やがて拍手喝采が起こった。

 この木の実、美味いぞ。おい、お前も食ってみろ。腹が減っているだろう?

 ラジールに呼ばれて、モウロは男の統べる集落の中央の木に飛んだ。確かに木の実は美味で、何処か懐かしく思えた。木から川、川から海と食べ物を求めて移動するうちに、モウロは何度も争いを見て、初めに感じた辟易を忘れた。口にするものは全て懐かしく、仕舞いには目の当たりにする争いすらも懐かしく思えた。

 少し長旅をしてみようじゃないか。そうだな、まずは海を渡ってみよう。モウロが唐突に提案した。

 向こうに何かあるのかい? ラジールの問いにモウロは、わからない、と答えた。ラジールは少し悩んだようだったが、結局、モウロの提案に従った。

 何故そうしようと思ったのか、モウロ自身にもわからなかった。海の彼方へ、意識が勝手に向けられてしまったようだった。

 洋上の風は強く、青々とした海は恐ろしいほどに大きくうねっていた。