ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

俳句3「切れ」

 

 今回は最後の約束「切れ」についてだ。三つの約束の中で最も掴みどころのないのがこの切れだと思う。

 切れは余白や響きをつくって感動や広がりを表現する。これを上手に用いることによって、俳句に良いリズムが生まれる。また、効果的な内容の省略によって読む人の想像力を掻き立てる

 ひぐらしや絨毯青く山に住む 橋本多佳子

この句は切れ字「や」をつかって上五で切ることで、ひぐらしを想像する間を作り出している。また、それにより俳句らしいリズムになっている。ひぐらしといえば、あの美しい鳴き声だろう。聴覚的な想像の後、壮大な視覚的描写を広げることで、さらに味わい深いものになっている。

 犬の仔をみせあっている日永かな 石田郷子

この句は下五の「かな」で切れる。春の季語「日永」に「かな」をつけ、寒く日の短かった冬からの開放感を感動をもって表現している。「かな」は句の終わりに置かれ、区全体を感動をもって響かせるはたらきがある。

 春月に山羊の白妙(しろたえ)産れけり 野見山朱鳥

この句は「けり」で切れる。春月のもとにうまれた山羊の白に対する深い感慨を、切れによって表現している。「けり」も大半は最後について、一句をすっきりと感動をもって言い切るはたらきがある。

 こうして何度も切れというと、間を作るのがいいんだ! と上五を「春月や」にしてしまいそうだが、そうすると句がブツブツと切れてしまってリズムが悪い。切れは一句に一つが原則だ。

 上に挙げた「」、「かな」、「けり」が代表的な切れ字だ。それぞれの使い方や効果の詳細は、個別にまた改めてまとめたいと思う。一方、俳句の中には、このような切れ字を使っていないものもたくさんある。

 蓋開けて電池直列春寒し 奥坂まや

この句は「蓋開けて電池直列」+「春寒し」と分けられると思う。「電池直列」の後に一瞬、イメージする間が生まれる。何に電池を入れているんだろう。そして「春寒し」。電池式ストーブだろうか。春あたたかくなって一度電池を抜いたのかもしれない。だが、ぶり返した寒さに慌てて電池を入れなおしたのだ。このように、「名詞」でも切れを生むことができる。

 へろへろとワンタンすするクリスマス 秋元不死男

「へろへろとワンタンすする」のあとに余白がある。いつ、どこですすっているのだろう、と期待感が広がる。そこで「クリスマス」だ。どこで、どんな気持ちで、とは直接言っていないが、「すする」のあとの間と季語「クリスマス」がその省略部分をうまく代弁している。私は、貧相な男が一人、自宅で寂しくワンタンをすすっているさまを想像してしまう。このように「動詞の終止形」や「形容詞の終止形」でも切れを生み出すことができる。

 ちなみにこの句、季語が動くかと考えてみた。「秋深し」、「年初め」、「春の雪」、いろいろ当てはめてみるが、「クリスマス」に勝る対比、哀愁はない。

 切れ字を使うと俳句が古めかしくなるという考えもあるらしい。だが、私はむしろその古めかしい響きもまた俳句らしくて良いと思っている。また、切れに関して松尾芭蕉は「切れ字に用いるときは、四十八字みな切れ字なり」といっている。ここで間をとって想像してほしい。作者にその思いがあり、読む人にそれが伝われば、切れは想像や感動を広げる。

 さて、先日念願の歳時記を購入した(角川学芸出版編「今はじめる人のための俳句歳時記 新版」)。 おかげで例句のバリエーションも豊富になった。歳時記の詳細は俳句の基本0「俳句との出会い」にも追記しておいた。説明が三回続いたが、次回は実際に俳句を作るときのコツについてまとめてみたい。