ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

感想6『金閣寺』

 

今回は一作品に集中する。良い文にはよく考えさせられるものだ。

 

* ネタバレにご注意ください!

 

14. 三島由紀夫金閣寺』(新潮文庫

再読したい度:☆☆☆☆☆

 疲れた。強固な論理的秩序と膨大な知識量に何度も負けそうになった。数年前の私なら途中で読むのを諦めていただろう。だが、読み切ってよかった。そこには満足感と充実感があった。まるで、難関大学の入試問題を解き切ったような。

 寺僧が金閣寺に放火する。本作はこの実話を題材としている。そのままでも衝撃的なこの事件を、作者は文学の傑作へと昇華させた。寺僧である主人公「私」の心情の複雑性や美に対する執着を緻密かつ明晰に記述した本作は、圧巻というほかない。

 他の作品を読んでも思うことであるが、作者はまさに理詰めの人である。「私」の心も、友人の言動も、目に映る景色も、時代も、美も、すべては揺るぎない論理を背景として書きあらわされている。その観点から、解き切った「入試問題」とは国語ではなく数学のそれであった気がしている。この作品の根幹には、簡潔ないくつかの数式が存在しているのだ。

 例えば、「私」にとって、「美 = 金閣」である。したがって、「私」が何かを美しいと思ったとき、その対象は必ず金閣に成り代わる。

「私」にとってまた、金閣こそが絶対の存在である(「金閣 = 無限大」)。ゆえに、他のすべてのものの価値は相対的に「ゼロ」に等しい(「金閣以外 ≈ ゼロ」)。

 このような数式の証明のために、高等な定理や公式が用いられ(他の文章の引用などに相当)、使い慣れない記号や標記が使われ(言葉遣いや熟語の使用などに相当)、我々では到底思いつかないような式展開がなされる(論理展開や描写表現などに相当)。その過程がこの作品を重厚な、味わい深いものにしているのだ。

 さて、圧倒的な「美( すなわち金閣)」に囚われ、自らの「無力」を呪う「私」は、いつしかその焼却が自らの使命であると思うようになる。これは「世界を変貌させるもの = 認識」と考える友人柏木に対し、「世界を変貌させるもの = 行為」と「私」は考える(あるいは、思い込もうとしている)からである。

 はじめ「私」は、金閣の焼失とともに死のうとした。「美」との心中を望んだのである。しかし、死の寸前で気づくのだ。世界が変貌したことに。自分が「ゼロ」でなくなったことに。

 金閣を頂点とした秩序は、「行為」によって一瞬で崩れ去った。無に等しかった金閣以外のすべてのものが、突如として価値をもつようになったのだ。

 だが、実のところ、これは行為によって「認識」が変えられただけかもしれなかった。「私」のすがる行為さえ、認識を変貌させる一要素に過ぎないとも考えられるのだ(「行為 ∈ 認識を変貌させるもの」)。

 どちらの証明過程が正しいにせよ、金閣への放火は「『私』 ≠ ゼロ」を揺るぎないものとした。「私」は消えゆく金閣を遠目に、すべてのものが価値をもつ新たな世界で、「生きよう」と思うのである。