ライ麦畑で叫ばせて

日常・数理・旅や触れた作品の留書・思考の道草 などについて書いています。

純粋か素直か(温暖化問題に触れて)

 

 高校一年生のときの担任がなかなか面白い人だった。彼は頭のキレる数学教師で、授業の進行は目まぐるしく、宿題は多く、板書は汚く、声は大きくと、当時はあまりいい印象がなかった。だが、振り返ってみれば、彼には形容しがたい魅力があった。

 今になっても彼にまつわる面白エピソードはいくつか思いつく。彼は板書が汚いくせに、黒板の汚れにはとてもうるさかった。自分の授業でもないのにときどき教室に寄っては「黒板が汚い。見づらいだろ。日直、磨け」と怒鳴って帰る。部屋の換気にもうるさかった。雪深い真冬、暖まった教室に入れば「空気が淀んでいる。一分でいいから換気をしろ」と顔を赤くして叫ぶ。

 お茶目な一面もあった。彼は「ゼルダの伝説」シリーズが好きだった。だが、とある新作が出たとき「わたしはこれをゼルダの伝説とは認めない!」と怒っていた。ゲームの主人公「リンク」は左利きだ。これまでずっと左手に剣を持っていた。だが、リモコンを振って操作するようにした新作では、右利きが多いことを考慮してリンクが右手に剣をもつようになってしまった。「認めないね!」と何度も彼は怒った。それくらい、よくないか?

 

 彼に面白さの真骨頂を見たのは、ある冬の日のことだった。私の高校では、日直が一日の終わりに日誌を書いて提出する決まりがあった。主な内容は欠席者、時間割と授業内容、行事など特筆すべき事項、といったところだが、日誌の体裁は担任教師に委ねられていた。そして彼の作った日誌には大きく「自由作文」の項目が設けられていた。A4用紙一枚、四十行程度が本来「日誌」とは関係のないただの作文だったのだ。

 出席番号の若かった私は、入学直後にこれを書かされて辛かった記憶がある。そして、二周目、三周目と、日直の順番が来るたびに、嫌になっていた。「何を書いてもいい」といわれると困る。今の私なら当時よりも少しは気の利いたことが書けるかもしれないが。

「皆が普段なにを考えているのか知りたいだけだ」と彼はいっていた。そんな彼の趣味に、教科書のような完璧な文章で立ち向かった友人がいた。主題は「地球温暖化」。二酸化炭素を中心とした温室効果ガスの増加が、地球を温暖化させている。だから私は日々の生活から温暖化の抑制に貢献したい。友人はそのようなことを一ページにわたって記述し、提出した。

 それを読んだ担任は、友人に対してこういった。「お前、本当にそう思っているのか? 俺は今まで通り好きな車に乗りたいし、スーパーでビニール袋だってもらうぞ」と。担任は怒っていた。不満のあるゲームを前にしたときのように。友人は褒められると思っていたことだろう。だが、残念。担任は燃費が悪くて二酸化炭素をバンバン吐き出すスポーツカーをあえて走らせるのが好きだったのだ。

 

 地球温暖化は深刻な問題だ。温暖化は人間活動を要因として確実に進行している。それはわかっている。何なら、この問題は現在の私の仕事にも深く関係していることだ。だが、その問題性を泣きながら訴えられたり、比喩的であれ「二酸化炭素が見える」などと言われたりすると、少し怖くなる。それは方法として本当に正しいのか? むしろ論点がずれてしまって、解決への糸口を隠してしまうことにはなるまいか?

 大舞台で泣きながら訴えた彼女の記事を読むと「純粋」という言葉をしばしば見つける。辞書を引けば「純粋」とは「邪念や私欲のないこと。打算や駆け引きのないこと」であるそうだ。本当か? と思ってしまう。私の心が既にすっかり汚染されてしまっただけだろうか? 彼女は「純粋」にそう考えて訴えているのか? 無理をしてはいまいか? と怖ろしく、心配になり、疑問符が湧き上がる。

 すると、あの担任教師は「純粋」ではない。「欲望の赴くままに生活したい」と自分から言っていたので確実だ。だが、彼からは「純粋」に近い何かを感じる。「素直」だろうかと思った。調べると「ありのままで飾り気のないさま。従順」といった意味らしい。これかもしれない。彼は生徒を「素直」に心配して怒るし、自分の欲望に「素直」に行動する。はじめに「形容しがたい」といったが、彼の魅力は「素直」で良さそうだ。

「純粋」と「素直」。どちらも漠然と良い意味だと思っていたが、見方によって印象はかなり異なる。全人類が「純粋」でなければ地球温暖化には対処できないかもしれない。だが、「素直」である方が簡単だろうし、私は楽しく打算的に「素直」でいたいと思う。「素直」であることに打算や駆け引きの有無は問われない。ここがまた、言葉の興味深いところではないか。