ライ麦畑で叫ばせて

日常・数理・旅や触れた作品の留書・思考の道草 などについて書いています。

朝朝思う、夜夜思う

 

 記事の下書き数が二十件を超えた。一意専心、物事は一つずつ片付けていく方だと自負していたが、実はそうでもなかったらしい。最近はそうではなくなった、といったほうが正しいだろうか。

 昔は運動であれ勉学であれ、一つのことに集中することが好きであり、得意であった。いじめにあおうが、肺炎になろうが、赤点をとろうが、面前で無知をさらそうが、一度やると決めたら食い下がるような熱意があった。

 だが、最近は違う。肯定的には自由度が広がった、とでもいえようか。できることが多過ぎるのだ。否定的には、すべきことが多過ぎる。今はそこまで義務的な用務はないにしろ、そうやって嘆く日はそんなに遠くない気がする。一つのことさえしていれば良いというのは、とても幸せなことだったのかもしれない。

 

 語彙的には、「朝」がなければ「夜」は存在しないだろうとよく耳にする。日が昇り、明りに覆われる「朝」がなく、暗いだけの日々なのだ。「朝」の対としての「夜」という言葉は確かに必要ない。

「語彙的には」といったのは、現象的には「白夜」や「極夜」として「朝」だけ、あるいは「夜」だけが存在しうるからだ。そうはいっても、これらは年単位で繰り返す現象であるから、日単位でなく長期的にみればやはり「朝」と「夜」という二語は必要になる。

「朝」がなければ「夜」は存在しないのか。この世でいう「夜」だけがある世界に行ってみないことには、その真偽は実のところ不明である。

 

 今の私は、言うなればずっと「夕暮れ」にいる。どちらかに、あるいは何かに振り切れるのが怖いのだ。「朝」も怖いし「夜」も怖い。

 昔はどうだったろう? と考えると、闘志を抱いて躍起になった「朝」だけの日々もあれば、出どころの知れない使命感にかられて走り続けた「夜」だけの日々もあったように思う。

 近頃は「まあいいさ」と冷めた面でいることが多くなった。本当は「これに没頭して失敗したら」、「あっちを選択して間違ったら」と恐怖しているだけなのに。その恐れにかこつけて、諦めているだけなのに。

 例えば、駐車場の遮断機が怖い。前の車は難なく遮断機を通過する。それなら大丈夫だろうと後を追った私の目の前には、突如として遮断棒が降ってくる。普通の駐車場なら必要なのは金だろうが、求められるのが業績だったら? 成果だったら? 完成度だったら? それらに投影されて歪んだ人間性だったら?

 それが大人だ、といわれればそれまでかもしれない。子供なら遮断棒など気にせず、下をくぐって何処かに遊びに出かけるだろう。 

 

 こんな如何ともし難いことを考えるのは、大抵「朝」か「夜」なのだ。「朝」も「夜」も、どうしてこんなに不安になろう。

「夕暮れ」が好きというのは昔から変わらない。遊び尽くして、走り疲れて、「そろそろ家に帰ろうか」となるあの時間が、私にとっては今でも一等心地が良い。

「秋は夕暮れ」とはよく言ったもので、季節とすれば最も好むのは「秋」だ。どちらともつかない変遷にあるという意味で、「夕暮れ」と「秋」には類似性があるのだろう。

 しかしながら、だ。相対する二つのときがあるから「夕暮れ」や「秋」があるのだ。そういう意味では、ときどき「朝」や「夜」、あるいは「夏」や「冬」に身を置くこともまた嫌いではないのかもしれない——。

 こんなことを考えていても、これ以上答えに迫ることはできまい。うだうだというのはもうよそう。これだって「まあいいさ、と諦めているじゃないか」と咎められるかもしれないが。

 もやもやとしたものが朝朝暮暮溜まっていく一方で、今朝ふと思いついたことが、一日と経たずこうして記事になったりもする。