ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

暗雲と地雷

 

 世の中に無駄なことなんてないんだよ、などという話になったとき、私は中学時代の一場面を思い出した。

 私の中学校では定期試験の三週間ほど前になると、A3用紙の簡素な表が全員に配られた。国数英理社が横軸、日付が縦軸に並んだその表に、試験勉強の予定を書き込んで提出しなければならないのだ。

 部活で汗に泥にまみれる以外は、友達と遊ぶことなどほとんどなく勉強ばかりしていたすーぱーえりーとの私にとっては、正直そんな表を作る時間さえ勿体なかった。試験範囲のページを調べてたらたらと表を埋める時間があったら、理科や社会の一問一答がいくつこなせるとおもっているのだ? 休憩はおろか速度を変えることも許されず、ぐるぐると池のまわりを走らされるあきら君と弟の努力も報われんだろう?

 やり場のない苛立ちから導き出した結論は、科目を英数と国理社に分け、1日ごとに「できるところまで」と記入して提出することだった。咎める担任教師の呆れた表情は今でも忘れられないが、そんなおばばの顔はどうでもいい。試験勉強の計画表を作る時間は無駄、主張したいのはこれだ。 

 

 世の中にもう一つ無駄なことがあるとすれば、それはドライヤーを取り出したり片付けたりする時間に違いない。毎日使うものなので、洗面所なり鏡の前なり、決まったところにすぐに使える状態で私はドライヤーを置いていたい。節電のためプラグを抜いておくというのはまあいいだろう。でも、使い終わったらコードを結んで棚にしまって、使うときはまた出してほどいて、というのが我慢ならんのだ。といいつつ、実際は我慢しているのだが。

 同居人は物はなんでも目に見えないところに隠しておくのが綺麗とする人らしく、私の利便性にかこつけた怠惰な性格とのせめぎ合いで、私はしばしば発狂する。さらに言うと、片付ける場所が読めない。一貫性がないわけではないのかもしれないが、私のカテゴライズと少しずつ違う。薬がここなら爪切りは…そっちかい! ペンがそこでハサミもそこなら…あれ、書類はこっちなん? といった具合だ。

 

 私は心が狭い人間なので、苛々することなど日常茶飯事だ。この前も某携帯ショップの店員の融通の利かなさに憤慨して店を飛び出した。二度と来ねえ! と啖呵を切った次の週、同じ店舗で無事に手続きを終えてきた。

 このタイプの苛々は足音が聞こえてくるというか、店員との会話の中でじわじわと暗雲立ち込めるのがわかってくる。ドライヤーや探し物云々も毎日のことなので、分類するならこの暗雲系苛々だろう。

 一方で、前触れなく爆ぜる地雷系苛々というのがこの世には存在する。

 朝起きてなにか腹に入れようと、かがんで冷蔵庫を開ける。ごそごそやって冷蔵庫を閉め立ち上がると同時に、脳天に衝撃が走る。電子レンジの扉だった。同居人が開けたままにしていたのだ。

 匂いがこもるというのでそうしているらしいが、私の家系にはその儀式風習がなかったので理解ができない。開けたら閉めるでしょうよ。開いてるなんて思わんでしょうよ。

 これで朝からブチギレである。朝なんてのは大抵機嫌が悪い。

 起床と同時に憤死しそうになることだってある。ベッドから床に着地する一歩目で、何かごつごつしたものを踏んで痛さのあまり床に崩れ落ちた。ビガンキだかガンモドキだか知らんが、それこそしまっておいてほしい。

 

 同居人への文句みたいになってしまったが、決してそういうことではない。ぱっと思いついたのがこれらの苛々だっただけで、別の日に書いたら電車の中でおっさんがどうとかまた違った苛々を連ねている。同居人は綺麗好きでよく掃除をしてくれる。あざっ!

 向上心や反抗心がある限り、この世から苛々がなくなることなどありえないのだ。苛々がない、それすなわち虚無。虚しいことは一等辛いはずだ。そう思うことにしよう。

 苛々してもそれを酒の肴にし、旅の道中で語り、こうして文章にしてやれば、空も少しは晴れ、大地にも緑草が顔を出すのに違いない。