この世界には種々多様な歌がある。
ハッピーな歌や暗い歌、荒々しい歌の話は以前した(幸福な言の葉 - ライ麦畑で叫ばせて)。今回は、聴いていると何故か耳に残る、私にとってはそんなカテゴリにある歌たちを取り上げてみたい。
「マイナス100度の太陽みたいに」
皆さんはこれを聞いて、いったいどんなものを想像するだろうか?
太陽といえば、朝に東から昇って夕方に西に沈む、寒い冬や梅雨の時期には恋しく、溶けるような真夏の日中には恨めしい、とっても明るく丸いアレを思い浮かべるはずだ。地球の中心から約1億5000万 kmのところにあり、半径約70万 km、代表的な温度は約6000 度という阿呆なスケールの、すべての人の認識の範疇にあって多くの人の理解の範疇にない、近くて遠いあの恒星である。
それが、マイナス100度ってのは一体?
ご存知の方が多いと思うが、これはサザンオールスターズの名曲『真夏の果実』の一節である。マイナス100度の太陽みたいに身体を湿らす恋とは?
法外に熱いはずのものがとっても冷たい。解釈は皆さんにお任せするが、いわゆる矛盾を比喩的に唄い上げ、複雑な状況をうまく表現していると私は思う。
「真っ赤なブルーだ(YUI『SUMMER SONG』)」は青の代名詞たる海が夕日に染まるさまを詩的に、そしてはつらつと表している。
「水のない晴れた海へ(GARNET CROW『水のない晴れた海』)」は、歌詞を通してみていただきたいが、憧れてむやみに得ようとしたものの本当のすがたと、それを得たことによる代償とを美しく唄っているように思う。
「冷たい炎が張り付いて(ZAZEN BOYS『はあとぶれいく』)」、「定めなき世の定めだぜ(エレファントカシマシ『SO MANY PEOPLE』)」などなど、 矛盾のある歌には枚挙にいとまがない。
これまでに挙げた例は、天変地異が起こるとか、言葉の定義が変えられるとか、我々を含む世界の常識や共通認識が変わらない限り矛盾の域を出ない「半恒久的矛盾」である。以下では少し趣向を変えて、よく考えるとそれっておかしいんじゃない? というような「見逃しがちな矛盾」を考えてみたい。
見逃しがち、といっておきながら、「瞳をとじて(平井堅『瞳をとじて』)」とお願いされてもわたしには瞼をとじるので精一杯です、という文句は有名だ。でも、この歌詞が「瞼をとじて」だったとしたら、いまいち素敵さに欠けるように思うのは、私だけではないはずだ。
「ブレーキいっぱい握りしめてゆっくりゆっくり下ってく(ゆず『夏色』)」というのには、工学的と物理的、両方の観点から指摘したいことがある。
まず工学的に、ブレーキをいっぱい握っても進んでしまうのならば、それは何かしらの整備不良だ。車輪と触れるゴムがすり減って摩擦が低下しているとか、ブレーキレバーの動きが悪いとか、考えられる理由はいくつかある。今すぐサイクルショップへGOだ。
さらに、二輪自転車で、しかも二人乗りで、ゆっくりゆっくり運動するというのは物理的に困難だ。ある程度スピードがでていないとバランスがとれないことを、皆さんも経験的にご存知であろう。
だからといって、「ブレーキ強めに握りしめて補助輪付き自転車でゆっくりゆっくり下ってく」だとどうも格好が悪い。
定義や法則に則ることは表現の幅を狭くし、厳密であることは美しさを削ぎ落とす。そして矛盾のある歌詞は、それらの限界を超える。
あらゆる束縛やしがらみから、ときどきの矛盾で解き放たれようとする私は、さながら雁字搦めの浮雲男だ。