ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。

春よ何処に

 

 新天地はここ一週間、まだ四月が始まったばかりだというのにすっかり初夏の陽気だ。

 職場と自宅を繋ぐ五十分、その半分は徒歩の道である。商店街をまっすぐ行って、角を曲がり住宅街に入る頃にはもう額に汗がにじむ。上着を脱いで鞄にしまう。緩慢な足取りのサラリーマン達を追い越しても、腰を振り歩く高いヒールの女には一向に追いつかない。

 乗り継ぐのは始発電車で、何分かの停車中にすっかり車内は乗客で満ちる。人々は意思もなく開いたままのドアに吸い込まれていく。……本当に無意識に? そんなはずはない。早足で、あるいは疾走して向かう姿はむしろ能動的である。……では、息を弾ませて乗り込むほどの愉快が、期待が、その先にはあるか? いいえ。車内で耳にするのは溜息で、目に映るのは俯く老若男女ばかりだ。

 思考なくただ能動的な人々が押し込められた車内では、決まって発進直前に空調が唸り出す。涼しい風は答えを見つける意気込みのない私の問答をたしなめる。

 

 昼食のため外出した帰り、気怠そうに職場へと歩を進める上司が皮肉めいていった。

「ここは窓が開かなくてね。冷房も強くないし、上の階ほど暑くなってきて大変なんだ」

 確かに、外からみる窓は全てはめ殺しだった。……そして上階と下階の温度差がまだないことを私は密かにたのしんだ。その不在に安堵し、同時にそれは私に惧れをもたらした。

 四階の一室で、私は既に腕まくりをしていた。疲れの度合いと過ぎゆく時間とが不釣り合いであるために、本当よりもずっと日が長く感じられた。

 

 もうすっかり暗くなった帰り道、何処からか揚げ物をするような音が聞こえてくる。よもや蝉ではあるまいが、道はすっかり夏の様相を呈していた。

 ふと立ち寄ったラーメン屋では夏の代名詞といえる曲が流れ続け、そうかと思えば民家のベランダには聖夜を思わせる色とりどりのイルミネーションがひかる。ついつい寝過ごすはずのこの季節に、最近は強いられてどうも早起きだ。

 これまで私が育んできた季節感というものが、この地では全く通用しないのかもしれなかった。そして私は私の中にある季節が確固たるものであると信じて疑わないほどに傲慢であることに気づいた。……そもそも私が認めていた春とは何だろう? それは何処にある? 

 九年間住んだ町に別れを告げてやってきたのがこの地だった。いわば九年振りの寂しい春を生きる今、私は抗うようにそれから目を背け、その存在を認めない。……私はただ脈々と繰り返される季節を望んでいた。……印刷された薄い線をただ鉛筆でなぞるように訪れる春を。……模倣的な、予定調和な年度の終わりと始まりを。

 舞い散る桜の花びらを見ず、そして新生活に心躍らすこともなく、私はまだこの地の春を肯おうとしない。……ほうら、ここに春があったぞ。そういって差し出されるものは何か? またその主は誰か? そんな夢想に耽る私の諦念を、楽天性を、安逸を、私は根拠なく誇った。

 そして更なる夢想が私にこう囁く。君がようやくその答えを見出したと思う頃には、おそらく春はすっかり塗り替わってしまっているに違いない、と。