ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。

変わりゆくときの中で

 

 東に向かって時速60 kmではしる車の中からみると、道端でぼんやり突っ立っている老人は時速60 kmでこちらに近づいてくるようにみえる。そして100 m先を時速60 kmで東にむかうバイクには、車はいつまで経っても追いつくことはできない。

 この相対速度的な考えに基づいて、今回はときの流れについて少しだけ考えてみたい。

 

 お前は昔から全然変わらないな。しばしば周囲の人間からそう言われるらしい友人がいる。また、その友人だけでなく、私もそのようなことを何故か知らんがときどき言われる。

 今、「とき」という大型バスが東に向かって時速60 kmではしっていると仮定する。

 このとき、「変わらない」とはどういうことだろう。何かしらの「静止状態」だろうと推測はできるが、それは「とき」の中で? それとも外で?

 等速で動きつづける者は、一般に自分が動いていることに気づかない。

「今日も地球の自転とともに、私も回っているのだなあ」

 そんなことを言うひとに、私は会ったことがない。

 すなわち、「とき」というバスに静かに乗って時速60 kmで進むのが「ふつう」といえる。そして、変わらないこととは、「とき」の流れの外に降りて道端に突っ立っていることに相当する。

 

 しかし、この考えは「とき」からの乗降が自由な場合にのみ成り立つものである。この世界において、ときの流れから降りてしまうことなど我々にはできない。「とき」はバスより大きいのだ。ずっとずっと、地球ほどにでかいのだ。

 では、逃れられないこの世のときの流れの中で、変わらないためにどうするか。そのためには、西に向かって時速60 kmで走り続けるしかない。

 変わりゆくときの中で、変わらないことのほうがむしろ変わっている。そしてそれには、かなりの体力と心力をつかう。

 だから、ずっと「変わらない」というのはやはり無理な話で、私も(そしておそらく友人も)結局、前よりずっと狡猾で、怠惰で、保守的だ。

 それでもじっと流れに身を任せているのは嫌で、ときどき西に時速120 kmで一気に戻ってみたり、時速3 kmでだらだら逆らってみたり、変わらないというのも何かとせわしない。

 

 スーパーマンは時間を戻すために地球の自転を逆向きにした。これで時間が戻るというのは相対論を持ち出しても理論的には非常に苦しい気がする。第一、実際に自転を止めて、それをさらに逆向きになどしようものなら、恐ろしい災害が──、というのは空想科学読本にお任せするしよう。

 しかし、「時間を戻す」という目的のためにスーパーマンがこの行動をとったことも、地球を「とき」という乗り物に見立てたと考えれば全く理解できなくもないか。