ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。特に「妄想」は別のところでしっかりカタチにするのが目標です。

スミノジカン

 男は今日も教室の隅に座る。全てはしがらみから解き放たれた1時間のために。

 2時限目は古文の授業の直前,右手にパイプ椅子,左手に年季の入ったノートという馴染みの格好で,彼はするすると教室に現れた。

「あ,スミノセンセ,おはようございます」

 彼を見つけた生徒達がにこやかに声を掛ける。

「おう,おはよう」

 男が愛想良く返すが早いか,校内には授業の開始を告げる鐘が響いた。ここは1年〇組,彼が物理の授業を受け持つ学級の一つだ。

 国語教師の入室と同時に,学級委員長が授業開始の音頭をとる。起立する生徒を教壇にて見渡すその教師の視線は,隅にひっそりと立つ男のところで不規則に停止した。2人の大人の顔に浮かんだバツの悪そうな笑みに気づいた生徒はおそらくいない。

 

「今日はありがとうございました」

「いえいえ。でも,あの,スミノ先生に授業を見られていると少し緊張してしまいます。噂には伺っていましたが,本当に古文の時間にまでお見えになるとは」

 男よりもずっと若い新任教師は,照れを隠すように大袈裟にハンカチで額を拭った。

「いつも皆さんに言う台詞ですが,どうかお気になさらず。──無論,そう言われても難しいでしょうがねえ──,とこれも決まり文句ですが。ところで先生,次の時限は空いていますか。幾つか質問がありまして」

 

 「隅の先生」と親しみを込めて呼ばれるこの男は,空き時間さえあればどの学級のどの教師の授業であろうとお構いなしに顔を出し,教室の隅で生徒と共に授業を受ける。この呼称は生徒だけでなく教師の間にも浸透しているほどだ。 

「──いわゆる国語だとか理科だとか,『教科』という分類は教育を行う上で必要不可欠ですが,これは評価や試験をし易くするため,あるいは教師の専門性を活かすためなど,いわば教える側の都合によるところが大きいように思います。生徒の知識を深める,好奇心を刺激するといった点では,むしろこのような枠は無い方がよろしい。人が如何なるかたちでどんな観点から,どんなものに興味をもつかなど,おそらく当事者自身でもわかりません。それに,何処かで折角抱いた関心を『型』にはめてしまうことで,その広がりを無理矢理狭めてしまうのは非常に残念なことです」

 新米教師は熱心に話を聴いていた。春先の教員室はさして暑くはなかったが,それでも度々額を拭うところをみると,どうやらそれが彼の癖であるらしい。

「先生はそれで,教科の壁をできるだけ取り払おうと,あらゆる授業をご覧になってその糸口を探していらっしゃる,という訳ですね。仰ることはよくわかります。しかし,例えば今日の『弓射る兵』のような古典ですと,先生のご専門とはどうも関連付けられないように思うのですが」

「いえ,そんなことはありません。それで先生に幾つか質問を──」

 

 物語の舞台は中世の東北地方,太平洋沿岸に軍を構える鍛野家と,その地に攻め入る樋元家の水軍との戦いであった。樋元家の猛将,菖蒲武友は,激しい北風が舟を揺らす悪条件の中,鉄壁と名高い鍛野の騎馬隊を次々と射抜いた。彼の活躍で,樋元家は見事に勝利を収めたという。

「──この戦い,季節についての記述は何かあるんでしょうか」

 柔らかな声で男は訊いた。

「ええ,教科書には記載されていませんが,現在の暦に換算すると11月中旬頃のことだったようです」

傷んだノートにペンを走らせつつ男は続けた。

「なるほど,するとちょうど木枯らしが吹く頃ですね。現在は確か気象庁で風速が定義されていたはずですが──,とにかく,矢は横風で相当流されるでしょう」

「はい,風は非常に強かったようで,矢はもちろんのこと,転覆した舟もそれなりの割合であったほどだそうです」

「ほう,舟の大きさや形は仮定になりますが,その情報から波の高さが推測はできそうですね。そこから風速を逆算すれば──,おっと,申し訳ない。考えるのは後にしましょう」

 男の言動に,対する若き教師は微笑んだ。愛想笑いなどではなく,濃密でありながらも淡々とした男の話,その奥にある思考に,素直に心惹かれていたのだ。

「あらゆる生物の中でも,人間はこの『風に流される矢』のような外力が加わる物体の運動を,脳内で瞬時に計算することに長けているのだそうです。それを敢えて数式で考えてみるのが物理の力学問題です。勿論,その古典的問題が現在の技術発展や最新の研究に繋がっているのですが」

 若者は少し俯きながら大きくゆっくりと頷いた。何か頭の中を整理しているようにみえる。やや間があって,青年が口を開いた。

「興味深いお話です。私は,その,いわゆる理系科目が苦手でして,授業で理科や数学については軽率に言及できませんが──。この戦いに勝利した後,ここを統治した樋元家は治水に極めて秀でていたとききます。地域全体を網羅した水路がうまく機能していて,それで現在でも米や野菜の生産量が多いのだとか」

 恐る恐る,といった様子で若者は持てる知識を披露した。ぎこちない彼の言葉を優しく包むような微笑を浮かべて男が返す。

「それは面白いお話だ。そういえばこの辺は確か有名な酒どころでもありましたね。米どころであることと,綺麗な水があったのと──。お酒の話を生徒達に話すのは少々早いでしょうがね」

 お猪口を傾ける仕草をしながら笑いかける男をみて,「この人と酒を飲んだらそれは楽しいことだろう」と若者は思う。その確固たる推察は,彼が初めて抱いた理想的かつ現実的な期待から来るものであった。

「さて,次に伺いたいのは,菖蒲武友の弓の腕前についてなのですが──」

 目前の青年の思いを知ってか知らでか,男は軽快に質問を続けるのだった。

 

「──お付き合いいただきありがとうございました。あとは,誰か体育の先生をつかまえて弓道の的までの距離を訊いて──,とそんな時間はなさそうですね。次の時限は2年〇組で授業でした」

 男は例のノートに教科書,それとCDプレーヤーを手に,颯爽と教員室を後にする。新任教師はその様を眺めつつ,思い出したかのようにハンカチで額を拭った。

 

 教室には男の生き生きとした声が響いていた。その背景には最新のポップロックを聴くことができる。

「では今日はこの曲を流しながら,これから考える問題を提示します。まず,この曲を知っている人は──,20人くらいですか。今人気の曲だそうだからね。実は,今回はこの曲の中に注目したい歌詞があるんです」

 男は少し曲を戻してから,二行ほどの歌詞を抜粋して板書した。

「今流れたこの部分です。つまり,今浸かっている風呂の『ぬるま湯』はこのあと『凍る』のか『煮え立つ』のかと言っている。果たして現実ではどうだろうか」

 隅の男は今,教室の中心にいる。彼の生き甲斐たる時間が始まっていた。