ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

ノスタルジーの行方


所用のため滞在中のハワイはホノルルにて筆をとる。

到着初日だが,もう日本が恋しい。
私の準備不足が全ての原因ではあるが,率直にいうと,やはり言語の壁は大きいなと思ってしまう。
皆さん必死に理解しようと努力してくれるので,余計に悲しく,そして申し訳なく思えてしまう。

日本はいいなあ。
日本語はいいなあ。

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そう思いつつ渡った橋から眺めた川は,私に「ノスタルジー」というものを否応なしに突きつけてきた(どうもハワイっぽくない写真であることをお許しください)。

かはひとつふるさとににずと思ひつつ思わじと思ふそは思ふなり

 

日本が大好きすぎて一首詠んでしまった。

 

「川ひとつとっても私のよく知る故郷の川とは違うのだなあと故郷を恋しく思いながら,『ここに滞在している間はもう故郷を思うことはやめて今と向き合わなければならない』と考えるが,『そう考えてしまう時点で,もう思ってしまっている』のだそうだ」

 

自分で訳までつけてしまった(思わじの「じ」は打消意志,最後の「なり」は伝聞の助動詞。テストに出すよ)。

 

これは,

 

思わじと思ふも物を思ふなり思わじとだに思わじやきみ

 

という歌が思い出されて詠むに至ったものである。

 

郷愁にはおのずと駆られるのであって,意識して思うものではないのだなと痛感したのであった。

 

はて,ここでひとつ疑問に思う。このノスタルジー,日本に戻ったらやはり無意識に消えてしまうものなのであろうか。それとも「あの頃のノスタルジー」として,ずっと記憶に残せるものなのであろうか。
記憶を記録にしておいて(光と弾丸 - ライ麦畑で叫ばせて で少し考えたものです),良くも悪くも思い返せるようにしておこうと思う。

 

今回は少々短いが,この辺で筆を置くことにする。
他言語に打ちひしがれている合間の道草と備忘録だと思っていただければ幸いである。