ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

光と弾丸

 

皆さんは,本を読みながら,映画を見ながら,講演を聴きながら,メモをとるだろうか。

旅先の建物,景色,食べ物,全てを写真におさめるだろうか。

 

私は,どちらもあまり積極的にするほうではない。

それでも,「あそこで食べたアレは美味しかった」とか,「あの本のあの一文にはまいった」とか,「あの人の話には考え方を変えさせられた」とか,手元に記録がなくても鮮明に思い出せる記憶はある。

そして勿論,メモや写真がある場合には,それを見返せば一般にその記録の周囲の記憶はパッと蘇るであろう。

 

出来事や経験をカタチとして残す「記録」と,無造作で断片的に,明瞭な強弱をもって脳内にしまわれている「記憶」。

思考回路の途中で道草をして,今回はこの2つについて少し考えてみた。

 

高校時代の化学教師を思い出してみる。

その人は板書がめちゃめちゃ速くて,いつもセカセカしていて,口癖は

「いいー?全部しっかり写したー?消すよー」

だった。

これが記憶として思い出されることもまた,手元に写真やメモがある訳ではないので,何かしらのインパクトを私の中に残したということになる。

無論この場合は,「進度が速いんだよ」や「全く理解できねえよ」などといったイライラが原因だ。

案の定,肝心の「その先生から教わったこと」は全く覚えていない。化学が嫌いになった原因ですらあるかもしれない(この結論は記憶が妄想に変わった結果である可能性が高い。この記憶‐妄想の回路の存在は,記憶の短所でもあり長所でもあると思う)。

 

大学で出会った友人の話に登場した教師を対比に出してみよう。

友人曰く,

「うちの高校には県内でも有名な物理の先生がいてさ。最初の授業で『授業中は板書を写しているヒマがあったら黙って俺の話を聴いてろ』って言ったんだ。エラそうに,と思ったけど,授業がめちゃめちゃ解り易くて。物理が得意になったのは先生のおかげかな」

だそうだ。できることなら私も授業を拝聴したかった。

記録の存在を度外視した記憶というのもまたあるのだろう。

 

日常というのは,我々がメモや写真で記録をとるのに必死になっていようが,ムムッ…とただ目を光らせていようが,ヨダレを垂らして寝ていようが,お構いなしに過ぎてゆくものだ。

でも,ただ過ぎるだけではなくて,その人の振る舞いや当事者に対するイベントの重大さに応じて,人の中身に作用する。

「今,俺,変わっている…!」などと考えることなく,だ。 

それはまるで,我々が普段意識せずとも光を浴び続けているのと同じように(コイツ急に変なこと言い出したな,と呆れずに,もう少し読み進めていただければ幸いです)。

 

ここでいう「光」の範囲は可視光にとどめない。すなわち,赤外(長波長)や紫外(短波長)の波を含めた「電磁波」をさすことにする。

地球にいて我々が最も恩恵を受ける光源といえば,太陽だろう。太陽光エネルギーのピークは可視光内(緑だったか)にあるが,赤外・紫外の光も放射している。

蛍光灯が発するのは可視光,熱をもつからやはり他の電磁波も出すことになる。

とにかく,我々は日常で,あらゆる波長帯(すなわち,エネルギー帯)の「光」を意識することなく浴びている。

 

この光は,実は我々に対していろいろに作用している。

周囲の物体からの反射光,あるいはその物体自体が放つ光が目に入れば,それは我々に物体のカタチや大きさ,色などの情報を与える。

これがなければおちおち歩くこともできないし,皆さんにこの文章を読んでいただくことも叶わない。

一方で,「ああ,見なきゃよかった」なんて思う場面に遭遇してしまうこともあるかもしれない。

 

赤外線は治療に使用される。その効果には私は詳しくないが,見えない光が我々に良い影響を及ぼすことの例といえよう。

赤外の電波は通信に使われているが,これは光を「浴びる」からは離れた間接的な作用なので,ここではこれ以上触れないことにする。

 

紫外線を浴びれば,知らないうちに日焼けをする。コレはいいと思う人,悪いと思う人がいるだろうと思う。

より短波長の光は身体を透過し,体内の可視化や治療に利用されることもある。

一方,これら高エネルギーの光の中には放射線と呼ばれるものもあり,皆さんご存知のように,人体に悪影響を及ぼすこともある。

 

「光」が我々に常に降り注ぐように「日常」は過ぎていく。

当たっても痛くもかゆくもなかったり,ただ身体を通り過ぎてゆく光もあれば,善悪問わず,知らず知らずのうちに何かしらの影響を残してゆく光もある。

それらの特異的な「光」が「記憶」を残すのであれば,「記録」とは一体なんだろうか?

 

「光は波であると同時に粒子でもある」というのは有名だ。

すなわち,光は質量も体積ももたない粒子(光子と呼ばれる)とも考えることができるのだ。

質量ゼロ,体積ゼロの無数の粒のうち,特別な粒が我々に作用して「記憶」となる。

 

すると「記録」は,その光子に質量と体積を与えるという過程にならないだろうか?

 

無限小の粒を,ここでは仮に質量10 g,体積5 mm × 5 mm × 20 mmくらいの物体とする。

これはちょうどハンドガンの弾くらいらしい。

初速が光速の弾丸とは恐れ入るが,まあこの辺は考えないことにしよう。

 

私は幸い未だ銃で撃たれたことはないが,おそらく弾丸が身体に当たると痛いし,傷が残る。その傷は決して消えることはなく,それを目にする度に,撃たれた瞬間のことを否応なしに思い出すことになる。

「記録」はそうやって,良いものは良いとしても,忘れたい嫌な記憶までも残酷なほど正確に厳密に残し続けるのだ。

 

また,物体が大きさをもつと,地上では空気をはじめ様々な抵抗が生ずる。

今までなんの抵抗もなく真っ直ぐ身体に当たっていた光子も,あえて弾丸に変えてしまうと空気やら風やら塵やらが邪魔して,思うように身体に当たらない。

「忘れないように『記録』に残そう」と必死になっていると,実は弾は全然当たっていなくて,後々見返してみると「あれ,これは何(何処,何時)の写真だっだかな? メモだったかな?」なんてことにもなり兼ねない。

黙っていれば光子が身体に命中して,何かしらの作用があったかもしれないのに。

 

記録がいつも悪いということは決してない。

ここで述べたように,記録によって残った「記憶」を,弾丸が当たって残った「傷」と考えるならば,名誉の負傷みたいなものだってたくさんあるだろう。

また,写真について言えば,芸術や商品としての役割,そして記録よりももっと重厚な「遺産」のような側面もあるのだろう。

つまるところ,記録行為そのものを否定するつもりは全くないことをここに明言しておきたい。

 

我々は,絶えず光に曝されて,知らず知らずのうちにその影響を受けている。

その光を弾丸にする作業に必死になって,結局弾に当たり損ねたり,蜂の巣のごとく無数の風穴を残したりするよりも,これまでよりも少し意識して,要所要所では全身を目一杯広げて光を浴びてみるほうが,健全に記憶を残すことができるのかもしれない。

 

ちなみに,序盤の()内で述べた記憶‐妄想の回路については,また次の機会にでも。