ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

時間軸の交錯

 

時間とは,物理学における互いに独立な7つの基本単位のうちの1つである。

私の携わっている地球物理学においても例外ではなく,長さ,質量,温度と併せて最もよく使われる単位のうちの一つだ。

そしてなにより,物理学に限定しなくとも,我々は今この瞬間においても,無意識に”時間”というものに関わっている訳だ。

 

先日,そんな「時間」について,少し考えさせられるきっかけに遭遇した。

 

ある有名な社会学の先生の講演を拝聴したときだ。

講演のテーマは「災害とコミュニティ」。自分の置かれた立場から,公的にも私的にもときどき考えることはあるが,それを専門的にどうのこうの──,ということはない課題だ。

そして,講演の内容。正直に言って,先生のお話の2割も理解できていないだろうと思われる。

語句や概念といった基本的なところから,議論する問題の重要性や論理展開の流れなど具体的なところまで,私の知識不足が理解を妨げたのは明白であろう。

 

そんな中,講演も後半に差し掛かった頃か。先生がこんな話を始めた。

 

「我々は不可逆的な直線運動をする『縦軸の時間』を進むと同時に,毎年回帰してくるような回転運動をする『横軸の時間』の中を廻っているのです」

 

このコトバは,「科学者や政府など」から「被災者」への情報提供・安全保障の際に問題となる,「それぞれの思いの相違」を考えるという話題の中で発せられたものだ。

この文脈でのコトバの解釈は後に回して,まずは「縦軸」・「横軸」,2つの時間の意味について考えてみる。

 

「縦軸の時間」は,話を聴いた限り,物理学や化学などの学問に留まらず,普段我々が使うような数値的,理論的な「時間」のようだ。

「時速○○ kmで□□時間走ったときに進む距離は──」なんかの問題を考えるときにも使う,おそらくほとんどの人が一般に思い浮かぶ「時間」だ。

タイムマシンのような(今のところ?)空想の乗り物が実現しない限り,その軸上での時間の行き来は不可能だ。

こちらは,理解に苦しむことはないだろう。

 

一方,「横軸の時間」というのは少し考えづらい。ヨコジクノジカンとは何だろうか?

講演中には,この「ジカン」と併せて重要そうな言葉がいくつか挙げられていた。

 

「仕事の区切り」,「行事」,「季節」,「神や仏」,「去年と同じ」,──。

 

新年になったとき,「去年の正月から一年が過ぎた」と考えるのは「縦軸の時間」に乗ったときだ。

「横軸の時間」に乗って考えたとき,いま訪れた「新年」は,昨年の今頃に円を描くように離れて姿を消して,再び我々のもとに戻って来た去年と同じ「新年」なのだそうだ。

年末の仕事を片付けて,実家に帰り,仏壇に手を合わせ,家族とワイワイ新たな年を迎え,雪を踏みしめ,友人と再会し,神社に参拝する──。

春には春の,夏には夏の,地域には地域の,自分には自分の決まり事のようなものがあって,それが脈々と繰り返されるのが,「横軸の時間」というものなのだ。

 

この結論に至るまでには,実は結構時間がかかった(「まだ良くわからん」という方,上述が結論ではありますが,もう少し説明しますので,どうか読み進めてください)。

少々変なところでつまづいてしまったからだ。

 

そのつまづきは,

「縦軸にも横軸にも時間をとるってどういうことやねん?」

という疑問にあった。

 

「縦軸」・「横軸」というのは比喩であろうというのは理解しているつもりでも,そうやって軸をとられると,どうも関数や図形を考えずにはいられない。

 

さて,そこでまず引っかかる。縦にも横にも同じ”時間”というパラメータを取るなんてことはあっただろうか?

私自身,「○○の温度の時間変化」とか「□□の各緯度における経年変化」とか,何か別のパラメータの時間変化を考えることが非常に多くて引っかかってしまったが,「反応Aの経過時間と反応Bの経過時間の関係」みたいなグラフは別の分野ならあり得なくもないような気がしないでもない。あるのかな?

こういう関係をみるのが意味のあるコトとしても,この場合の「時間」はある現象や反応などで限定された時間であるので,我々が今まさにその一部を生きている「恒久的な時間」を両軸にとるのにはまだ抵抗がある。

 

とはいっても,そんな駄々をこねくり回していても仕方がない。思い切って両軸に時間をとることを考えてみるか。

横軸には廻り戻ってくるような回転運動,縦軸には単純な直線運動──。

一次元での回転運動なんてのは,いよいよ私の想像を超えている。「横軸」は「水平方向の二軸」で勘弁してもらおう。

「縦軸」=「鉛直軸」の単調増加は簡単そうだ。

 

そんなこんなで描いてみたグラフは以下のとおりである。

 

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基本的には,水平方向には円を描き,鉛直方向には単調増加させている。いわゆる螺旋階段のような形だ。

ただ,円の半径を鉛直軸依存にして,周期の異なる二つの正弦関数の足し合わせで変化させている。

色は円の大きさに関わらず一周で循環するようにした。

 

鉛直方向を時間軸(年)としてみてみる。人生50年というわけだ(それくらいで十分)。

この方向にみれば,1年過ぎれば1目盛り進む,不可逆の直線運動だ。

 

水平方向は色を時間(月)としてみる。

赤色から始まり,寒色系へと移り変わり,再び赤色へと廻っている。始点の赤色が自分の誕生日と思えば良いか。

その一周は,環境や思考の変化,特別な試練やイベントの有無などで感覚的長さは異なるかもしれないが,結局,毎年同じ「時間」が廻ってくる。

 

おお,先生のおっしゃっていたコトバと合致しているかはよくわからんが,一応カタチにはなった。満足だ。

 

「縦軸の時間」・「横軸の時間」の交錯の実態をわかった気になったところで,

”「科学者や政府など」から「被災者」への情報提供・安全保障の際に問題となる,「それぞれの思いの相違」を考え”

て結びとする。

 

人は「縦軸の時間」を歩むと同時に,「横軸の時間」を廻っている。

ところが,また一年後も廻ってくるはずだった「時間」が,災害によって突如遮られてしまった。

続けていた仕事,伝統の神事・祭事,訪れるはずの場所,会うべき人,──。

 

一方,「縦軸」では淡々と時間が進み,研究者や政府,企業などは災害を分析し,防災・減災を考え,その実現に取り組み,やがてそれが良いところまでくると,「もうココは安全です」と人々に伝える。

でも,伝えられた人たちにとって,それは今までとは全く別の「ココ」であって,「横軸の時間」がまたすぐに廻り出す訳ではない。

 

図上で「縦軸」と「横軸」とを交錯させることは簡単であるが,実際の主観的な「時間」はそうはいかない。

止まってしまった水平方向の運動は,双方の思いの強さや変化,互いの粘り強い関わりあい,揺らぐことのない「縦軸の時間」の経過,などなど,どんな要素がどれくらい効くのかはわからないが,慎重に,丁寧に取り戻さなければならないのだ。

 

「二つの時間軸」という一見難解な話を通して,先生はこのようなことを伝えたかったのではないかと考えている。