ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

あの日と同じ風

 

 マストになびく信号旗に憧れていた。

 ずっと昔の話になる。私は海沿いの小さな町に生まれた。そろそろと細く弱々しい黒煙を上げる工場が幾つかと,そこではたらく者たちの住まい,あとは漁で生計を立てる世帯がちらほらとあるだけの町だ。

 生まれ故郷の記憶はこれくらいだ。間もなくして,私は売りに出された。なに,悲しいことではない。それが私の生まれた意味であり,それだけが私の運命であった。

 引き取り先はすぐに現れた。海に近いことは同じであったが,こちらは大洋に面した,大きな港町であった。

 主人は船乗りをしていた。がっしりした身体に太い腕がたくましい,優しい心の男であった。彼はよく私を船に乗せ,長期の航海も何度か共にした。故郷でみた小さな漁船とは違い,乗り込む船はどれも大きかったが,外洋に出て行き違う船はまたそれのさらに何倍も大きいのに驚嘆したものだ。

 その船々の天辺,青空に突き出たマストに掲げられた色鮮やかな旗たちは,どれもが誇らしげに風になびいていた。信号旗と呼ばれるそれは、ひとつひとつが定められた意味をもつらしかった。それを記憶することは私の頭では叶わなかったが,私はただ旗を眺めるだけで十分であった。

 

 出会いがそうであるように,別れもまた唐突であった。

 長期航海の途中,停泊した港の堤防沿いを主人と散歩していたときだ。腰の高さ程の堤防の向こうに,小さな人影がみえた。この辺りは波消しの岩がずっと遠くまで並んでいるので,貝や磯蟹を捕まえるために堤防を越える者たちが少なくないのは確かであった。しかし,その人影は一向にその場所を動こうとせず,ずっとうずくまったままなのだ。不思議に思い駆け寄った主人は,そこに色白で華奢な少女が倒れているのをみつけた。

 小さな手で押さえられた膝からは,少女の透明さには不釣り合いなほどにはっきりとした赤色の血が溢れ出ていた。

 主人の咄嗟の判断により,私は少女の応急処置をすることになった。彼女の膝からは勢い変わらず血が溢れ続けたが,私はそれを必死に抑えようと努力した。

 程なくして主人と助けの大人たちが現れると,少女と私は病院に運ばれた。傷は即座に縫われ,怪我を見た衝撃で朦朧としていた彼女の意識もすぐに回復した。両親に連れられて,彼女はその日のうちに退院できた。そして,私もまた,少女に連れられ病院を後にした。

 

「助けてくれてありがとう」

 次の主人となった少女は,初めこそ私にこう語りかけ私を大事にしたが,やがてすぐに扱いは変わった。私はいつも彼女に振り回され,幾度となく傷つけられ,汚された。だが,それはまた,私はいつも彼女と一緒であったことを意味した。彼女もまた前の主人と同様,優しい心の持ち主であった。

 彼女の両親もまた,優しかった。母は,私が傷つけばすぐになおし,汚れればすぐに洗ってくれた。父は,主人と私をいろいろなところに連れて行ってくれた。大きな公園や動物園,そして,主人と出会ったあの堤防。

「もうお父さんとお母さんから離れたら駄目だぞ」

「わかってるって。お父さん,お母さん,貝集め競争しよう」

 両親のすぐ隣で嬉々として貝を探す彼女の首元で,私は陽の光る彼女の汗を受け止め,彼女の手や貝殻の汚れを引き受け,3人と幸せを共にした。

 

 母によって丁寧に洗われ,軒下で心地よい風になびいていると,塀の向こうから主人の声が聞こえてきた。どうやら友人と鬼ごっこをしているようだ。

 鉄筋コンクリート造の大きな建物が乱立したこの町で,主人の家と隣の小さな神社だけが,時間の流れに取り残されたようだった。高層マンションにも目は奪われるが,木造の古くて温かみのあるこの家が私は気に入っている。隣の神社の姿もまた歴史を感じさせるものである。境内は公園によくある砂場程の広さで、子供達が走り回るには少し狭いようだが、そのこじんまりしたところもまた良いのだ。

 故郷の小さな工場から,遠回りをして随分と離れたところに来たものだ。それでも,出荷前にほんの一寸感じた潮風も,外洋で旗をなびかせる強風も,軒下で私を心地よくさせるこの風も,何も違うところはない。

「風に乗って世界をみるのが私の今の夢さ」

 年老いた私よりもずっと前からあった神社の御神木が,風に緑葉を鳴らしながらそんなことを言っていた。

「役目を終えて,塵になったら空に舞って,そしたらずっと」

  私の役目はおそらくここで終わるだろう。そしたらまた,巡り合えるのだ。それは,どの船になびく旗よりも自由だろう。

「お母さん,喉渇いた! お水と──,あと汗も拭く!」

「はーい。もう乾いたかしらねぇ」

 母の柔らかな手が私に触れる。物干し竿から母の手へ,そして主人の首元へとわたった。役目を全うすることだ。それが私の運命なのだから。