ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。宜しければご覧ください。

もう一度,あなたの舞を

 

年末年始を実家で過ごした。

 

二人の弟は,偶然にも私と同じ町に進学してきたから,時々こちらで会うこともあるのだけれど,両親,そして父方の祖母とはお盆に帰省したとき以来の再会だった。

家に着き,居間の戸を開けると,そこには祖母の姿があった。座椅子にちょこんと腰かける彼女は,夏に会ったときよりもまた少し小さくなった気がした。

でも,彼女の優しさと気遣いは底なしに大きく,何とも懐かしく,一向に愛おしく,そして些か不思議な感じがしたのであった。

 

そうか,もう一年以上も前のことになる。

2015年の春だったか夏だったか。

90歳を過ぎたその祖母が,階段で転んで骨折し,救急車で運ばれた。

一人で買い物にいった先の市場での事故だったらしい。

怪我が少々複雑だったことと,年を重ねて治癒力が衰えてきていたことなどが原因だろうか,祖母はそのまま長期の入院を余儀なくされた。

 

それからの彼女の生活や治療のことを,私はよく知らない。

 

私自身,両親と頻繁に連絡をとる方ではないことが一因だろうが,何より,あの元気で力強く誇り高い祖母を,骨折程度で心配してはいけない,と自分自身思っていたところがある。

いや,もしかしたらそう言い聞かせていただけだったのかもしれない。本当は,この上なく心配していて,状況を知るのが怖かったのかもしれない。

 

とにかく,事故後に祖母と対面したのは,事故から暫く経ったその年の冬のことだった。

怪我の治療自体は終わっていたらしい。病院の本棟から少し離れた「リハビリ棟」と呼ばれる古い建物の中で,祖母は生活していた。自宅での生活に戻るための準備をするためだ。

 

リバビリ棟で、家族が久々に集まった。

黄ばんだ壁にヒビ割れた床。古くて暗い建物だ。

テレビや本などは無く、祖母の他に2人の老婆がベッドに横たわっているだけだった。

 

「ばあちゃん、久しぶり」

「久しぶり」

「ども」

 

兄弟3人でどこか気恥ずかしく声を掛ける。

 

弱弱しく頭をあげ、我々3人の顔を見たのか見ないのか。私に向かってこう言った。

 

「あら、〇〇(私の父の名)、来てくれたか」

 

突然のことに私が言葉を見つけられないでいると、父が代わりに答えた。

 

「〇〇はこっちだ。△△(私の名前)と□□(次男)と■■(三男)が帰って来たんだぞ」

「あら、そうなの。大っきくなったね。わざわざありがとうね」

 

よそよそしい言葉だった。

遠い親戚の子と話しているような、そんな感じだった。

 

(こんな状態なのか──)

 

言葉にできない感情が瞬く間に脳内に広がったのを記憶している。

 

我々兄弟3人からのお土産を渡しながら、「これは何処のお菓子だ」「それは何処のお茶だ」などとしばらく土産話をしていると、三男に向かって突然祖母が口を開いた。

 

「あら、おたくはどちらさん?」

 

ショックだっただろう。隣でそれをきいた私ですらショックだった。でも、当然三男も祖母がどういう状態にあるのかは理解していただろう。

 

「■■だよ」

「え?どちらさん?」

「■■です」

「え?」

 

「あなたの孫だよ」

 

見かねて父がフォローに入る。

祖母はしっくりきていない様子だったが,部屋に間に流れる気まずい空気に耐え兼ねた父の掛け声で,その後すぐに病室を後にした。

 

帰りの車内は父と母が「今日の晩飯、何にする?」などと時たま口を開くだけで、重い静寂が続いていた。

 

「今度のお盆に帰ってくるときは,3人とも,それぞれスーツを持ってきてくれ。6人でそろって,家族写真を撮ろう」

 

父が我々に向かって言った。

その真意は即座にわかったが,ぼんやりとした頭の中で,私は父の言葉をただずっと噛み続けるだけで,暫く飲み込めないでいた。

 

そして,夏。

 

祖母は既に退院していた。

帰省のたびにいつも,変わりのないことに安堵していた実家が,そのときは少し変わっていた。

祖母の部屋は父や叔母の手によって片付けられ,大きなベッドや座椅子が存在感を放っていた。

廊下や階段にも今までになかった手すりが取り付けられ,真新しい木材の明るい色が違和感を駆り立てた。

 

「おう,お帰り。3人とも,よく来たな」

 

座椅子に腰かけていた祖母は,我々の姿をみつけるとひょいと立ち上がり,にこやかにそういった。

 

「ただいま」

 

そこには,入院前と変わらない,元気な祖母があった。

懐かしかった。嬉しかった。そして,驚いた。

 

家族写真は撮らなかった。

「『何に使うつもりだ。私は嫌だ』と,ばあちゃんに断られたんだ」と,少し寂しそうに,でも嬉しそうに笑いながら,父が撮影を断念した訳を説明してくれた。

強くて少し頑固な,祖母らしい反応だと思った。

 

祖母は強くて,優しい人だ。

 

我々兄弟3人は,何故か,自転車を祖母に教わった。

3人の中でも私は一番飲み込みが悪く,転ぶたびに「ばあちゃんのせいだ」と泣きわめき,八つ当たりして,彼女を困らせていたらしい。

 

祖母とは,町内を何度も散歩した。

「新幹線,見に行くか?」

その声に我々は目を輝かせ,近くの線路まで連れられては,行き交う新幹線をじっと眺めていた。

「公園行くか?」

その声に我々は心を躍らせ,近所のブランコと滑り台だけがある小さな公園に行っては,日が暮れるまで遊んでいた。

 

祖母はずっと,日本舞踊をやっていた。

近くの公民館で週に1,2度の練習があったようだ。

小学生の頃には一度,発表会を見に行ったこともあった。

綺麗に化粧をして,華やかな着物を着て,美しい扇子を片手に舞う姿は,普段の祖母とはまた違って,しなやかで柔らかかったことを覚えている。

昔は芸名をもって踊っていたこともあったらしいというから,腕前もなかなかのものだったのかもしれない。

私が中学生の頃に,人間関係のトラブルとかでキッパリやめてしまったのだけど,そのあとも暫くは,家で曲を流しては,扇子を片手に踊っている姿をみた。

 

ずっと続いていた趣味を無くしても,祖母は元気だった。

「戦争中は,『横に進むものはカニでも許すな』って言われててねぇ。英語なんて全く教えて貰えたかったから」

我々が学校で英語を教わり始めると,「私にもアルファベットを教えてちょうだい」と,AからZまで,繰り返し,何度も書いて,楽しそうに勉強していた。

 

祖母はずっと,刺激を求めて生きていたのだ。

体を動かすこと,頭を使うこと。彼女は新しいことを求め続けていた。

それが,入院をきっかけに,何処へも行けない,家族とも話せない,テレビも本も無い生活になったしまったのだ。

刺激を糧にしていた脳が,栄養不足になってしまった。

 

そのときは,不安で,哀しかった。

「もうずっと,このままなのではないか──」と心配だった。

 

でも,再び刺激に溢れた日常に戻ると,祖母はすぐにそれらを吸収してくれた。

 

医学に詳しい人にすれば,「そんなもの当然だ」というようなことなのかもしれないが,素人の私にとってはそれがとても不思議で,驚くべきことで,そして,神秘的なものだったのだ。

 

”これからも”,”いつまでも”というのは,非現実的なことだろう。

でも,少しでも多くの刺激を感じて,生きてほしいと思うのだ。

 

「脚が治った」とはいっても,身体は着実に衰えているようで,もう激しい運動は難しいのかもしれない。

でも,刺激に神秘的な力があるのなら,「もう一度,祖母の踊りを,美しい舞を見せてくれないか」と,今になって願うのだ。