ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。宜しければご覧ください。

習字セットの筆は今

 

彼らはトーク中に「僕らの目標は結成序盤で達成されてしまって,そこから今までは惰性でやってます」的なことを語ってくれた。

惰性で国民的アーティストになれるのだから,その才能には嫉妬せざるを得ない。

 

先日,ある有名バンドグループのライブに行ってきた。

 

生まれてこの方,あまり積極的にライブやフェスというものに足を運ぶことはしなかったのだが,昨年,数少ない友人のうちの一人にお誘い頂いて決起したのを皮切りに,最近はちらほらと贔屓のアーティスト目当てに会場に行くことがある。

そして,素敵な生演奏を前にしては狂喜乱舞したり(むむむ…)と黙って演奏に酔いしれたり酒に酔ったりマナーの悪い客に底なしの敵対心を燃やしたりしている。

 

彼らの演奏を生で見るのは今回が初めてだった。

数は少ないながらも私がこれまでにお目当てにしてきたアーティストたちを「動」とするならば,今回は完全に「静」に分類されると推測していたので,会場の雰囲気やライブの進行なんかがどうなっていくのか非常に興味深かった。

そして,その「静」の推測はあたっていた。

このライブ,というよりこのライブ会場に在る私の心情を一言で表現するなら,「をかし」だったのではなかろうか。

 

古語辞典によれば, 「をかし」は形容詞で,「こっけいだ,興味深い,趣がある,美しい,すぐれている」といった意味をもつらしい。

中学校の古典においては「あはれ:しみじみとした趣」とともに「趣がある」という意味合いの代表的な古文単語だったと記憶している。

もう少し調べてみると,「をかし」,「あはれ」はどちらも平安時代における文学の基本的な美的理念だそうだ。

前者は”「あはれ」のように対象に入り込むのではなく,対象を知的・批評的に観察し,鋭い感覚で対象を捉えることによって起こる情趣(Weblioより引用)”だそうだ。

となれば,「あはれ」は対象にどっぷり入り込んで得た,しみじみとした感動,情趣といったところか。

 

これら単語を初めて目にした当初の私に比べれば,今の私はそれなりにそれなりの経験を積んで,必要不要問わず諸々の知識を身につけていると自負している。

だが,

 「『をかし』と『あはれ』の意味をお前は完全に理解できているか」

と問われると自信をもって「イエス」と答えることはできない。

(未だにようわからんな…)が本音なのだ。

でも,こんなようわからん言葉がなんとも形容し難い複雑な感情を表すのに便利だったりする。

これは,

 「曖昧な言葉で逃げている」

とか,

 「小難しい言葉を出して聞き手を強引に納得させる」

とかそういうことではなく(,とはいっても,私みたいに文全体の書き方が下手クソだとそう思われてしまうこともあるだろうけど),

 「『その言葉の定義自体が広域をカバーしていて微妙なところ』が感情の複雑さと絶妙に合致すると凄まじい威力を発揮する」

ということだ。

 

さて,ライブは今年リリースされたアルバムを中心に構成されていた。

コマーシャルでよく聞き慣れた曲で始まると,会場の観客たちは一瞬にして興奮の渦に巻き込まれた,のだと思う。

実は,私は曲に合わせて手を挙げて前後左右に振ったり跳んだり跳ねたりするのが苦手だ。

石像みたいにつっ立って黙って聴くのが好きなのだ。

ライブの類に参加したてのときは,このような「ノリ」をしないことで(こいつ,わかってねえな)とか,(会場にいるんだから盛り上がれよ)とか思われるんじゃないか,と不安だった。

だが,あるアーティストの語りをきっかけに現在はその心配から解き放たれている。

この「不安からの解放」についてココで説明すると話が発散してしまうので,その話題は次回に持ち越すことにする。

とにかく,最近の私のライブに望むスタイルは「狂喜乱舞」ではなく「(むむむ…)」だ。

 

目前の生演奏はCDで聴くのとほとんど違わず進んでいく。

寸分の狂いなく,既成の歌をなぞるように。

 

興奮して手をブンブン振り回す人,曲に合わせてとろけるように首をゆっくりと揺らしている人,私と同じく黙って聴いている人など,観客の様子はいろいろだ。

 

(本当に綺麗に歌うなぁ…)

そんな考えが頭を支配する。

 

やがて,思考の種が次々と飛び始める。

(一瞬後には消えてしまう音や声に,人は何故こうも興奮してしまうのかなぁ)

(本当に,斜め前の客は何故にこんなに興奮してるんだ)

(それにしても,歌,狂わないなぁ)

(前の前の客は狂ってるなぁ)

 

そして,私は演奏に聴き入っていないことを認識しだす。

(自分の身体から魂が抜けだして,会場の天井スレスレを鳥みたいに飛んで,この場を総観できたら良いなぁ)

(否,気持ちは既に飛んでるんだよなぁ)

(歌,狂わないなぁ)

(前の前の奴,やべーなぁ)

 

もう,全然歌に集中していないのである。 

いいのだ。雰囲気を楽しむのが私の姿勢だ。 

 

多少のトークを挟み,ライブは懐かしい曲のクラスタに移行する。

(ああ,これは小学校の卒業記念で合唱したっけなぁ)

(これは中学生のとき自分の部屋でCD聴いてたなぁ)

合唱練習に励んだ教室,合唱のパート分けで音楽の先生と対立した音楽室,音楽を垂れ流しながら寝っ転がっていた自室のベッドなんかが次々と思い出される。

 

記憶は「嗅覚」と最も直結していると聞いたことがある。

詳しくは知らないが,これは五感の中でも「匂い」だけが脳内で「理性のフィルタ」みたいなものを通さずに「本能」を司る部分を直接刺激するからだそうだ。

そして,「嗅覚」の次に記憶と深く結び付いているのが「聴覚」なのだという。

脳の仕組みは全く知らないながらも,演奏を聴きつつ(なるほど)と思う。

 

(この歌はあのときカラオケで歌ったなぁ。酔ってて音外しまくったなぁ)

私の意識は「メロディ」よりも「会場の高揚」よりも「自分自身の過去の記憶」を駆けているように思われた。

が,そんな中でも,かつて何度も聞いた曲となれば,無意識的に違和感に気づく。

 (あ,今のしゃくりの具合がCDと少し違ったぞ)

この既成と生演奏の違いを認識した瞬間に,突拍子もない考えが頭をよぎる。

 

「ああ,なんか書道の時間っぽいなぁ」

 

私の意識は記憶から妄想へとトリップする。

 

小学生の頃,私は書道が嫌いだった。

すなわち,(どうでも良いが)蘇った記憶は例によって負の感情であったということだ。

今現在,字がとっても下手クソな私は,当時も当然のごとく字が下手クソヤローだった。

毛筆となると特にひどくて,ダメダメ。

上手く書けない言い訳のように「そもそも,お手本通り字を書いて何の意味があるんだ」などと詭弁を弄する始末だった。

ここまでは全て事実だ。

 

ある日,書道の時間に担任がこんなことを言い出すのだ。

 「今日で,皆さんが持っているこの茶色い表紙のお手本帳を使うのは最後になります。そこで突然ですが,今日はなんと,その『お手本』を実際に書いた先生をお招きしています。皆さん拍手でお迎えしましょう」

 

(パチパチパチ…)

 

まばらな拍手の中,眼鏡に白髪のおじさんが登場した。

ベージュのチノパンに淡いブルーのシャツ,ブラウンのジャケットを纏う姿には清潔感があった。

先生は席に着く私達の方に顔を向けてはいるものの,我々より遥か後方,ずっと遠くを見るようにしてから,深々と一礼した。

 

 「では早速,先生にお手本帳○○ページの字を,ここで書いてもらいます。みなさん,椅子は持たずに前に集合!」

バタバタ走って前にでるもの,名前を呼ばれないと席を立たないもの,後ろで控えめにしながら先生の様子をのぞき込むものと,児童の個性は様々だ。

 「しーっ!」

ガヤガヤする空気に担任が静寂を促す。

 

日常で感じることのない緊張と沈黙の中,その先生はゆっくりと,そして力強く筆を動かしていく。

(うわぁ…)

(うめぇ…)

(すげぇ…)

感嘆詞や当然の形容詞がちらほらと聞こえてくる中,私は少し後ろのほうで斜に構えて様子を窺っている。

 

先生が静かに筆を置く。

そして,半紙を手に取り観衆に向ける。

 

そこには堂々としたお手本通りの文字が書かれていた。

 「すっげぇー,お手本通りだ!」

 「字,うめぇー!」

やんちゃな男子どもが叫ぶと,張り詰めた風船がパチンと割れて,教室は称賛の声や奇怪な叫び声で騒然とする。

 

(いやぁ,お手本と全く同じじゃん。面白くねぇ)

素直に感動することを知らずにふてくされる私。

 

 「次は,○○ページです」

生披露は続いていく。

 

筆を持つ,筆を置く,称賛。筆を持つ,筆を置く,称賛。…。

 

いくつめの単語だろう。

墨のつきが甘かったのか,それとも力の入れ方が違ったのか,書き上げられた文字はお手本と比べると「はらい」の部分が少しかすれて薄くなっている。

 「あ,ちょっと違う!」

 「下手だ!」

児童たちが難癖をつけだす。

先生は頭を掻きながら「ははは…,これも力強くて良くないかい?」と苦笑している。

 

そして私は,一般の意見に反して思うのだ。

(少しの違い,なんかようわからんが,ちょっとカッコいいんじゃないか…)

 

そう思ってみてみると,黒板に次々と貼られる半紙の文字とお手本帳には若干の違いが稀に見受けられるのだ。

「とめ」の強さ,「はね」の勢い,「はらい」の長さ,…。

「生の息遣いがどうだ」とか「臨場感がこうだ」とかの現場にのめり込んだことによる感動よりも,客観的にみた「既成」と「生」との若干の違いに何故だか感動している小学生の自分がそこにはいた…。

 

そんな馬鹿げた妄想を広げに広げているうちに,ライブは終了していた。

 

鳴りやまぬ拍手はアンコールの思い。

感動の理由はそれぞれ違っても,「まだこの空気から離れたくない」という願いは一緒だったろう。 

 

 「はーい,皆さんの拍手へのお返しに,先生がもう何個か特別に書いてくださるそうですよ」

そうして書かれた文字は,自分の好きな単語だった。

(あの言葉,書いてくれたらちょっとうれしいな)

そう思っていた。

自分が以前に少しうまく書けたから気に入っているのだ。

軽やかな筆の動きは堂々とした軌跡を残した。

 

心に刻まれた,

 「青い車

の三文字。

 

えぇ,えぇ。生演奏はやっぱり良いものですな。

ほとんど狂いなく美しい演奏できることが凄い。

冒頭にも言いましたが,その才能に嫉妬でありました。

 

そして,演奏に入り込んでフィーバーするよりも,客観的に演奏やらそれに盛り上がってる人たちやらを眺めるのが私の楽しみ方であると再認識した。

 

さらに,その中で生まれる「既知からの逸脱」が,何か知らんが私にとっての「をかし」だった。

何となくで良い,共感してくださる方はいらっしゃるだろうか。

 

「聴覚」で呼び寄せられた記憶の中で迷子になってヘンな妄想を膨らませてしまったが,大変良いライブでした。

 

嫌いだった書道も今となっては懐かしく,間違って少しやってみたい気もする。

そうそう,この国には「書初め」という文化があるらしい。

実家の何処かで眠っているであろう習字セットを引っ張り出して,やってみようかしらん。

そういえば,洗うということをサボってばかりだったから,セットの中の筆はいつもガチガチに固まって,頭が二つに割れたりしていたっけ。

 

筆は今でも変わらずに固まっているだろうか。

それとも,もうカビでも生えてしまっているだろうか。

はたまた,セット一式,捨てられているかもしれないな。

 

ちなみに,「私の敬愛する『動』の歌手が書道のお手本書き実演に来たら」の妄想も膨らんでしまったので,これはまたの機会にでも。