ライ麦畑で叫ばせて

日常/数理/旅や触れた作品の留書/思考の道草 などについて書いています。

何度でも、君の歌声

 

そのフェスは”ジャズフェス”というのに案外ジャズ奏者のパフォーマンスは多くない。

 

数年前に友人Sに連れられて行ったのが最初だった。

当時はまだジャズにそれほど関心がなく、ただただ「なんだかカッコいいなぁ」と思ったり、ひたすら「ビールうめえなぁ」と思ったりしただけだった。

一変、今回はとある旅(詳しくは 国境は別れの顔 - ライ麦畑で叫ばせて を参照願いたい)以降ジャズは好きになっていたし、さらに目当ての演奏もあったしで前回とはまた違った心意気で会場に足を運んだ。

 

その目当てというのはある後輩の演奏だった。

彼女はなんでもゴスペルサークルなるものに所属しており、今回のフェスでも選考を通過して歌えることになったというのだ。

これは早速ジャズではないのだが、ゴスペルというものを生で真剣に聴くのは初めてだったし、日々熱心に練習する後輩の歌がどんなのか心惹かれたので、喜んで拝聴させていただくことにした。

 

彼女は二つのステージで出演することになっていたので、演奏は二度聴けた。

初めはサークル全体で、二回目は同期だけでの演奏だったようだ。

私は二回目の方がそれぞれの個性が光っていて好きだったが、素直にいって、どちらもとても良かった。

 

私の好きなアーティストには、揺らぎのない正確無比な演奏をする方々(習字セットの筆は今 - ライ麦畑で叫ばせて)と巧妙かつハチャメチャな唯一無二の演奏をする方々(お手本はずっと昔に置いてきた - ライ麦畑で叫ばせて)の両極がいらっしゃるが、そのどちらとも違った。

音の高低・強弱なんかは徹底して練習されているだろう。でも、その正確さを培うという裏の過程が、本番では見えなかった。

歌っている全員が、ただただ本当に楽しそうだった。 狙いや驕り、怯えや不安はそこにはなかった。

 

これまでアーティストの演奏を何故か「習字の授業」で例えてきたが、それで表現するのであれば、この演奏は自主性を重んじる授業ということになるだろうか。

これまできちんと練習してきたテキストは大事だけれど、今日は思い思い自分なりに楽しんで書いてみましょう。そういい聞かされた気がした。

 

 

フェスの数日前、「今から緊張してるんです」という後輩に「それでもやっぱり人前で歌いたいの?」と何の気なしに尋ねたことがあった。

はい。これはもう自己満足なんです。終わって拍手を浴びたいんです。楽しくやって、それで拍手をもらえたら、ああ、やってよかった、またやりたい、ってなるんです。

彼女は笑顔でそう答えてくれた。

 

そう、やはりそうなんだ。

昔、何冊か本を読んだ作家の言葉に、

”物を作る人には、自己顕示欲と創作意欲が両方あるんでしょうけど、自己顕示欲を捨てれば、読者の数は一人でも平気です(伊坂幸太郎・『モダンタイムス』)”

というのがあった。本の内容は覚えていないが、この言葉が妙に印象に残っていた。

そして、私自分も書くのが好きだが、それは創作意欲を満たすためにしていることだと考えるようにしていた。

でも、それはどうも違うようだった。私はやはりそこまで諦観はできなくて、誰かに称賛されたくて、認められたくて書いているのだ。

一人では満たされない。もっと読んでほしい。読んで、感心してほしい。できるだけ多くの人に良いと思ってほしい。

 

でも、誰が読んでくれるのだろうか。一体、どうすれば読んでもらえるのだろうか。

後輩の演奏を聴いて感じたのは、やはり一番は、自分が満足することだ。途中の不安も葛藤も自己満足で包み込んで、書きたいものを書ききることだ。

そこには、恐らく矛盾がある。褒められたいなら、褒められるようなキャッチーで優等生な文を、そういうところで書けば良いように思われる。

自己顕示欲と創作意欲のせめぎ合い。結局は「イチかゼロか」なのだろうか。一人でも「良い、おもしろい」といって読んでくれる人がいる限り、書き続ける意味があるのだろうか。

 

 

間もなく、愉快に満ちた四十分間が終わる。

人だかりに足を止めた人たちが、やがて演奏に聴き入り、また誰かの足を止める。そうやって演奏中に聴衆は増え続け、会場はいつの間にかいっぱいになっていた。

私は心から大きな拍手を送った。

そして鳴り止まぬ拍手を聴きながら、私にもできるだろうか、と期待と疑念が内から湧き上がるのを感じた。

まずはこのブログから、少しでも多くの人に読んでもらえば良いだろうか。

なんだが顔見知りに読まれるのが気恥ずかしくて、私がここに駄文を書き連ねていることはほとんど口にしていない。これを知る友人は三、四人だろうか。 

まずは、この後輩に読んでもらうのが良いかもしれない。

拍手があるかはわからないが、恐らく同じ欲をもつ一人間として、何か分かり合えることがあるかもしれない。

「何を通してか」は抜きにして、「どう満たされたいか」が同じ人には、あるいは刺さるものがあるかもしれない。 

良い悪いと常々批評してくれる一人の友人は、きっとその辺が深いところで一緒なのだ。

 

 

場所を変え、ビール片手に木陰の柵に腰かける。楽しんで、そして褒められたいなんて、欲張りが過ぎるだろうか。

すっかり満杯になってしまった思考の表面をクールなジャズがさらりと撫でて、私は私の満たされない欲求を呪った。

 

 

(この記事のタイトルは久々に、ルパン三世TV第4シリーズ第20話「もう一度、君の歌声」を参考にさせていただきました)