1か月以上前になるが,とある試験を受けた。
その科目中には一般教養も含まれていた。相当前に受けたセンター試験のような内容に加えて,高校では選択していなかった政治経済やら日本史やら生物やらも勉強した。
そのオベンキョウ中にふと考えたことについては以前に記したが(ここにある - ライ麦畑で叫ばせて),今回は試験を受けてみて得た知識,考えたことについて書き留めることにする。
まずは全体の手応えをざっくりと。
序盤の社会系(地理歴史・政治経済・倫理など)は自信無しだったが,中盤の読解(国語・英語)と終盤の理科数学はまずまず解けたといったところだろうか。時間不足を心配してハイパー急いで解いていたからか,意外と時間には余裕があってよかった。
さて,これらの中で今回特に取り上げたいのは「国語の読解」である。
問題にあたってみての感想は,思ったより読めるやん自分,というか現役のときより読解力上がってないか?である。
現役時より本を読むようになったし,何より自分で文章を書くようになったのが大きいか。
そして,どれくらい読めるようになったかというと,試験中に文章を味わい,後になってその内容について吟味してしまえるほど,である(昔はこんな余裕はなかった。文章の内容を試験や演習後に覚えていることなどなかった。とはいえ先の試験で余裕があった訳では決してないが)。
試験直後は3つ4つ文章の内容を覚えていて,特に論説文の内容については友人のS氏とあれこれ議論していたが,1か月以上たった今ではその内容をほとんど忘れてしまった。勿体ない,すぐに記事を書けばよかった──!
辛うじて覚えている1つの文章について。その内容は「人とのつながりは過去の共有によって形成される」というものだった。
強弱あるいは濃淡の違いこそあれ,人とのつながり無しに生きていくことはできないこの世であるが,まず大前提として,今を生きるということはすなわち過去を生きたということである。
その中には一人でも抱えてしまえる過去も多大に存在するが,それらをどこまで分かち合うかが,すなわちその人とどこまで強い繋がりをもつかということになる。
仕事上の,であればこれまでの進捗や経緯などを共有すれば十分で,つながりはすぐに形成できるだろう。余談だが,「今後の方針」というような一見未来的な事柄の共有もまた,実際は過去の共有である。
古い友人であればあるほど,これまで共に分かち合った過去というもの自体がおのずと増えるであろう。そしてそれが親友となれば,他の誰にも明かしていない赤裸々な過去までも語り合い共有してしまうものだ。
「過去の共有」が「未来のその人とのつながり」に直接関係しないように思われることもあるだろう。
それは明確な目的をもたないつながり(仕事上の関係よりむしろ友人関係)に多いかもしれない。
「先の依頼への対応がとてもよかったから,また彼(あの会社)にお願いしよう」
というのはわかり易いが,
「あいつは小さい頃,立小便の途中で犬に追いかけられて以来,犬がからっきしダメらしい」
は一見未来のつながりとは無関係だ。
「だからあいつとはペットショップは経営できない」
となるのは稀な例で,
「あいつとはこんな阿呆な話までし合ったんだよ」
と,ある種の秘密を握ったこと,気を許した仲だということが,この先の二人の関係性をより親密なものとするだろう。
先日,15年来の親友たるS氏と飲んでいたときだ。
「実は俺,昔は団地に住んでいたんだ。団地ってのが当時好きになれなくて,今まであまり話したことがなかったんだけど」
とS氏が赤裸々に語った。
「なんだ,そうだったのか,知らなかったよ」
これでまたひとつ親密に──ん? っんんんっっっ!?
「俺,その団地,行ったことない!?」
「──あるわ! お前来たよ! んで一緒にゲームしたんだっけな!」
彼と二人で分かち合った過去にもまだ忘れていたものがあったか,とはっとしたのと同時に,少々恥ずかしく,そして何だか嬉しくなったのであった。