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ライ麦畑で叫ばせて

日常・回想・妄想・数学理科・社会・思考の道草 を軸に書きます。特に「妄想」は別のところでしっかりカタチにするのが目標です。

ブルターニュの風は高く

回想 妄想

 

2015年11月11日。

フランスはブルターニュ地方の港町,ブレストの海沿いに私は立っていた。

曇天になびく白と黒の旗と,それをじっと眺める老婆。

真実と妄想の英雄譚が,ここから始まった―。

 

昨年,フランスの研究機関に出張する機会があって,このブレストに1週間程滞在した。

研究所まではホテルから路面電車とバスを乗り継いで1時間くらいだったろうか。

平日は仕事の相談や議論をするために,観光などする間もなく毎日せっせとこの道を往復した,といいたかったのだが,幸運…,もとい,残念ながらそうはならなかった。

出張のちょうど中日にあたる11月11日は,フランスでは第一次世界大戦の「休戦記念日」なる休日で,研究所もこの日は全日閉館だったのだ。

 

前日の帰り際に「あれ,明日は休日なの知ってるよね?」みたいなことを現地の研究者に言われるまで,私はこの休日を全く知らなかったので,観光の情報やプランなどは全く無かった。

前日にホテルへ戻ってインターネットであれこれ調べたが,フランスの端の港町,あまり目を引く観光スポットはないようだった,というか,この町に関する情報自体が少なかった。

 

(明日は適当に散歩でもして,あとはホテルで休んでるか…)

 

半ば諦めつつ,夕食を食べに近くのレストランに行くと,そこにはフリーの観光マップがあった。

 

ブレスト城―。

海沿いにある城で,かつて軍事要塞として活躍した建造物らしい。現在は博物館になっていて,どうやら休日も開いているようだ。

ホテルから歩いて30分くらいじゃないか。

もう一つのオススメである水族館は車がないと厳しいみたいだ。

開館は午後からとゆったりのようなので,午前中は街を散策して,その後はここに行ってみよう。

 

そして,次の日。

あいにくの曇り空だが,傘は必要なさそうだった。

 

外に出ると,街では警官なのか何なのか,兵士のような恰好をした人々がラッパや太鼓の音に合わせて行進する姿が見られた。

兵士に扮した人々はステージに整列,誰かのスピーチが始まり,そして,黙祷。

その雰囲気から,追悼の式典だろうと思われた。

 

暫く式典の様子を眺めてから,時間を見て,港の方へ向かう。

目標の城までは石畳の緩やかな下り坂が続いていた。

隣を路面電車が通り過ぎる。

開いている店はまばらで,人通りは少ない。

私が想像する,ヨーロッパの片田舎の休日を,私はまさに歩いていた。

 

やがて,海が見えてくる。

海沿いの細長い公園をしばらく行くと,ついにめあての城が現れた。

石造りの立派な建物だが,私の印象は「城」というより「砦」だった。

 

そして私は,そのてっぺんに見たことのない旗をみつける。

白と黒で色使いはシンプルだが,格好良いデザインだと思った。

 

ここは海沿い。不規則で強い風の吹く中,何度か撮影に挑戦したが,一番良く撮れたのが,これだろうか。

 

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わかりにくいので,拾った画像をひとつ。

 

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カメラを片手に城の前で暫く風と格闘していると,突然,一人の老婆が私に寄ってきた。

カメラの有無の違いはあるが,私と同じようにその老婆も旗を眺めていたのは認識していた。

 

「ウニャニャニャニャー?」

 

老婆が私に話しかけてきた。フランス語だろうか。

全く分からないので,英語で申し訳なく思いつつ返した。

 

「Sorry...」

 

老婆は,「Oh…」といって少し間を置くと,英語で私に訊いてきた。

 

「観光者の方ですか」

 

というようなことを。

私は,「はい」と答えた。

すると,老婆はゆっくりと,慣れない英語で,考えながら,一生懸命に,語ってくれたのだ。

 

以下の日本語は,私が聞き取ることができて,記憶に残っている限りの老婆の言葉である。

帰国後に興味をもって調べたこともあり,もしかしたら記憶が妄想に変わっている部分もあるかもしれないことは,ご了承いただきたい。

 

 ”この旗は,ブルターニュの旗なの。

 白と黒の横線は昔の州の数を表しているのよ。

 そして,左上のシンボルは,えーと,ごめんなさい,英語がわからないわ。

 動物を表しているの。

 夏は茶色い毛で覆われているんだけど,冬になると真っ白になるのよ。

 でも,しっぽの先は黒いまま。それをシンボルは示している。

 そして,この動物は,勇敢なものの象徴なの。

 決して逃げない。私達は戦うのよ。

 フランスの国旗はご存知でしょう?

 あれは,フランスの国旗であって,私達の国旗じゃない。

 ブルターニュは,フランスに支配されたの。

 でも,私達は今でもこの旗を誇りに思っている。

 あなたはこの旗が好き?そう,良かったわ。

 この街の人たちも皆,この旗が好きよ。”

 

返って調べた情報によると,旗の名はグウェン・ハ・デュ(Gwenn ha Du),ブルトン語という現地の言葉で「白と黒」を意味するそうだ。

横線は厳密には司教区の数を示していた。

そして,シンボルが示す動物の日本名は,オコジョ,あるいは白テンであった。

700年にわたりブルトン人が治めていた「ブルターニュ公国」は,1532年にフランス王国に統合され,それからフランスの一地方となってしまったらしい。

しかしながら,統合から500年近く経った現在でも,ブルターニュの人々の強い民族意識と誇りの高さはよく知られているようだ。

 

ところで,なぜ,オコジョ?

そう思ってもう少し調べると,もとは,ブルターニュ公国の紋章にオコジョが使われていたことによるという。

 

「汚れるよりはむしろ死」

 

ブルターニュ公爵のポリシーだというこの言葉も,オコジョにまつわるお話から生まれていた。

 

「ある日,公妃が領地を歩き回っていたとき,偶然にもオコジョを追いかける男たちに出くわした。男たちに追われ,泥沼のふちに追い詰められたオコジョは,この泥沼を渡りながら真っ白な毛皮を汚すよりも,正面から立ち向かおうと,男たちに対峙した」

 

というものだ。

公妃はその姿に魅力を感じ,紋章にそれを描き,公爵はそれをポリシーにした,らしい。

 

ふむ…。

この話を知ったとき,美しさと潔さを感じる一方,何とも言えない,疑念の類の感情が頭の中を支配した。

 

そしてまた,妄想が始まる。

妄想はいい。妄想が私を救う―。 

 

ある森に,ヴァンスというオコジョの少年がいた。

冬の良く晴れた日,彼が雪道を歩いていると,物知りの老オコジョ,ボイヤーと出会った。

「やぁ,ヴァンス。散歩かい」

「はい。今日は天気がいいので」

ボイヤーの質問に,ヴァンスはハキハキと答えた。

「そうかい,それはいいことだ。でも,ヴァンス,この森には最近,『フタアシ』がでるらしいから気を付けるんだよ」

「『フタアシ』,ああ,二本足で歩く毛のない動物のことですね。大丈夫です。僕は我々『チャシロ』の中でも特別,逃げ足が速いんですよ」

人間が勝手にオコジョを「オコジョ」と名付け,自分たちを「ニンゲン」と呼ぶように,彼らの世界では人間は「フタアシ」で,自分たちは「チャシロ」であった。

 

「そうだ,ボイヤーさん。今日も何か面白い話を聴かせてくれませんか?」

「ああ,いいだろう。じゃあ今日は,『フタアシ』の世界の英雄譚を聞かせてやろう。ある森に,『オコジョ』という動物がいてな。あるとき,『ニンゲン』という敵の動物に一匹の『オコジョ』が―」

ボイヤーは,「オコジョ」が自分たちのことであるとは知らずに「あのお話」を語り,ヴァンスもまた,それを自分たちの話とは知らずに聴いた。

 

「へぇ,逃げずにわざわざ死んでしまうなんて,僕はしないだろうな。でもまあ,カッコいい英雄の話だったよ。ありがとう,ボイヤーさん」

 

(ガサガサ…)

ボイヤーと別れて一人散歩をしていたヴァンスは,怪しい物音に気付く。

近い,もう遅いか。でも,逃げなければ。

ボイヤーは一心不乱に走った。

しかし,複数の足音はどんなに走っても遠ざかることはない。

 

(くそっ…!)

 

ヴァンスが辿り着いたのは,大きな泥沼だった。

後ろを振り向くと,追ってきたのは「フタアシ」だった。

(何てこった。出来ることならこの泥沼を渡って逃げたいけど―,僕は,逃げ足には自信があるけど,泳げないんだ。この沼に入ったら確実に死んじゃうよ)

ヴァンスは,苦渋の決断をした。

「フタアシ」と対峙して,逃げられる奇跡を待つほかなかった。

 

妄想終わり。

 

これくらいのほうが泥臭さがあってしっくりくるな。

英雄譚を英雄が聞いて,自分のことだとわからないことだってあるだろう。

 

あ,ブレスト城の中の博物館は船の模型や大砲などなどが飾られていて,これまたとても素晴らしかった。

そして,お婆さんのおかげであの旗が大好きになったので,マグネットを買ってきてしまった。

いつも目につくところに置いて,ときどきボーっと眺めている。

 

最後に,この文章のタイトルは,またまたアニメ「ルパン三世」の第2シリーズ第30話,「モロッコの風は熱く」を参考にさせていただいた。

ブルターニュの力強く,誇り高い風が,このタイトルをみて連想されたのがきっかけだ。

 

ルパン三世のタイトルはカッコいいものが多くて,タイトルから書く内容が連想されるのが,なんか面白い。

 

誰が最後に笑ったか

理数

 

突然ですが,ここで問題。

 

”今,あなたの前に3つの箱がある。1つの箱には「賞金100万円」,2つの箱には「たわし」が入っている。そして,あなたは最終的に選んだ箱の中身を貰うことができる。まず,あなたが1つの箱を選択する。私は残りの箱のうち「たわし」が入った箱を開けてみせる。つまり,この時点であなたが選んだ箱と,未開の箱のどちらかが「賞金100万円」,もう一方は「たわし」だ。ここであなたは,最初に選んだ箱を,未開の箱に変える権利が与えられる。あなたは箱を変更すべきか”

 

先日,偶然に出会ったこの問題。

 

実は「モンティ・ホール問題」という名称で有名な確率論の問題らしい(私は知らなかった)。

名前の由来はモンティ・ホールという人が司会を務めるアメリカのテレビ番組のゲームだそうだ。

ルールは先の出題と同様,「3つの扉のうち1つの扉の向こうには豪華賞品があり,2つには(何故か)ヤギがいて,選んだものを獲得できる」という内容だ。

 

あるとき,マリリン・ボス・サヴァントという女性の元に一通の手紙が届く。

彼女は,とある雑誌で「何でも相談」の記事を担当していた。

「どうしても賞品が欲しい!」という読者から寄せられたこの手紙に綴られていたのが,

 

「このゲームでは選択を変えるべきか,変えないべきか」

 

という質問だった。

 

実はこのマリリンさん,IQ228でギネスにも認定されている超天才。

彼女に寄せられた質問(理数問題,恋愛,人生相談など種類を問わない)に対する回答はどれも関心するものばかりらしい。

そちらを辿るだけで相当面白そうなのだが,本記事ではひとまずこの「モンティ・ホール問題」への回答を取り上げることにしよう。

 

彼女の回答は,

 

「選ぶ扉は変えた方がいいに決まっているわ。当たる確率が2倍になるのだがら」

 

だった。

 

そして,この答えが全米を巻き込む大論争に発展することになる。

 

コラムの読者からはマリリンに対する膨大な量の抗議や中傷が寄せられた。

 

「間違いを素直に認めるべきた」

「女性は数学の問題に対する考え方が男性と違うのだろう」

「ヤギはお前だ!」

 

云々…。

その中には数学の博士号をもつ専門家からの批判もあったという。

 

皆さんはどうお考えだろう。

扉は最終的に3つから2つに減らされるから,変える変えないに関わらず当たる確率は「2分の1」のように思われる。

とある大学の数学者もそう断言する程だ。

 

「そんなに疑うのなら,試してみるといいわ」

 

批判に対するマリリンのこの回答が,国立研究機関を動かした。

この問題についてのプログラムを組み,数値実験すること100万回,確かに「変える」方が確率は2倍になったのだという。

 

(何故だ…)

 

モンティ・ホール問題に関する動画をインターネットで偶然見つけて鑑賞していた私は,ここまでの説明を見て頭を抱えた。

動画を止めて紙とペンを持ち悩むこと数十秒,たったの数十秒で,ひらめいた。

 

(めんどくせぇ。続きを見れば解説があるだろう)

 

なんたる怠惰な男だ。

 

続きを再生すると,予想通り解説が始まった。

どこかの予備校か塾か,有名講師らしい人が現れて淡々と説明する。

 

「では,ここで実際にゲームをやってみましょうか。ただ,ルールを少し変えます。扉の数をじゃあ…100万個にしてみましょうか。その中の1つだけが,アタリです」

 

(え,100万個?増やしちゃうの?ややこしくない?)

私の心の声など露知らず,解説は続く。

 

「ここから,あなたは1つ扉を選びます。そして,わたしは選ばれた扉以外のハズレを99万9999個開けて見せます」

 

(ふむふむ…おぉ…!)

 

「どうです?変えた方がいいですよね?これが,扉3つの場合でも,起こっているのです」

 

ここで解説は終了していた。

 

確かに変えた方がいい。それは,初めに正解を選ぶ確率が小さいからだ。

初めに正解を選んでいる確率は「100万分の1」だ。

極めて大きな確率でハズレを選んでいるといっていい。

そこから,残りのハズレを全部消してくれて,「さあ,変えてもいいよ」と言われたら,今,選んでいないほうがまずアタリだろう。

計算式などで説明がなかったのが少し残念だったが,感覚にうったえる解り易い説明だった。

 

数値をこよなく愛する方たちの為に,ここまで情報を得た私が重い手を動かして考えたクソ解説を以下に示す。

 

「1.『絶対に選ぶ扉を変えない』と心に決めた場合」

と,

「2.『絶対に選ぶ扉を変える』と心に決めた場合」

で場合分けしてみよう。

 

以下の説明では,「」内は選択肢が3つの場合の確率,さらに()内は選択肢が100万個の場合の当たる確率である。

 

1.の場合

 賞品を獲得できる確率は最初の選択だけで決まるから,

 「3分の1(100万分の1)」

 だ。

 

2.の場合

 この場合は,初めの選択でハズレを選ぶことができればいい。最後にそれを捨てて,残りのアタリを選ぶからだ。

 したがって,獲得の確率は

 「3分の2(100万分の99万9999)」

 だ。

 

説明終わり。

 

おお…

マリリンのいう通り,選択を変えた方が当たる確率は確かに2倍だ。

100万個では99万9999倍にもなっている。だから感覚的に解り易かったのか。

 

最後に笑うのは,選択を変えた挑戦者である確率が高い。

 

さて,この問題を通して私が最も考えたことは,「確率論の面白さ」でも「マリリンの賢さ」でも「本当は自分が間違っていた数学者のいたたまれなさ」でも「扉の向こうのヤギの気持ち」でもない。

 

何かを考えるときは,まず初めに,最も簡単な場合を考えるべきだ。

 

袋の中に赤玉と白玉が100個ずつあったら,100万個あったら,N個あったら…。

それらにまつわる問いが複雑であればあるほど,私なら玉の数を減らして,具体的な数字でもって「簡単化」して考えてみるだろう。

私の中では「簡単化=数を減らす」で,それが「鉄則」だった。

 

もしかしたら,

(例外もあるのだろう)

と頭の何処かでは思っていたかもしれない。

でも,その「例外」にぶち当たったことを意識したことはこれまでなかったのだ。

 

そして出会った,モンティ・ホール問題。

 

正解がわかってしまった今では安心して,自信をもって扉を100万個に増やせるが,答えもわからぬままに,私にはそれは出来なかったろう。

 

天才だマリリン。

意識せずとも脳みその中で扉を増やし,式を立てずとも感覚で正しい答えを導き出すとは。

 

最後に笑うのは,やはり天才か。

 

ここで終われば「私の最も考えたこと=マリリンの賢さ」になってしまう。

 

違うのだ。

最後に笑うのは,私がいい。

 

「簡単化≠数を減らす」を思い知らされ,安い言葉だが私は感銘を受けた。

ものを考えることにおいて,私の中での未開の地を開拓できた。

「思考プロセスの多様性」を考えることができたのだ。

 

ここまで読んでくださった皆さまが,この問題に関わる事象に少しでもプラスの感情をもってくれているならば,最後に笑っているのは,皆さまということになろう。

と,言いたいところだが,それを望んで書いたこの文,皆さまが笑っているのなら,一番笑っているのは,やっぱり「私」だ。

 

ちなみにこの記事のタイトル「誰が最後に笑ったか」は,テレビアニメ「ルパン三世(第1シリーズ)」の第12話の題名をそのまま使わせていただいた。

内容は確か,ある村の宝を狙うルパン一味と対峙する盗賊団,そして最後には意外な人が宝を…というものだったはずだ。

もちろん,モンティ・ホール問題とは一切関係ない。

 

実は私,ルパンが大好きで,最近は第1-第2シリーズと少しずつ観返している。

これからもときどき,タイトルをお貸しいただこうかと思う。

 

習字セットの筆は今

日常 妄想

 

彼らはトーク中に「僕らの目標は結成序盤で達成されてしまって,そこから今までは惰性でやってます」的なことを語ってくれた。

惰性で国民的アーティストになれるのだから,その才能には嫉妬せざるを得ない。

 

先日,ある有名バンドグループのライブに行ってきた。

 

生まれてこの方,あまり積極的にライブやフェスというものに足を運ぶことはしなかったのだが,昨年,数少ない友人のうちの一人にお誘い頂いて決起したのを皮切りに,最近はちらほらと贔屓のアーティスト目当てに会場に行くことがある。

そして,素敵な生演奏を前にしては狂喜乱舞したり(むむむ…)と黙って演奏に酔いしれたり酒に酔ったりマナーの悪い客に底なしの敵対心を燃やしたりしている。

 

彼らの演奏を生で見るのは今回が初めてだった。

数は少ないながらも私がこれまでにお目当てにしてきたアーティストたちを「動」とするならば,今回は完全に「静」に分類されると推測していたので,会場の雰囲気やライブの進行なんかがどうなっていくのか非常に興味深かった。

そして,その「静」の推測はあたっていた。

このライブ,というよりこのライブ会場に在る私の心情を一言で表現するなら,「をかし」だったのではなかろうか。

 

古語辞典によれば, 「をかし」は形容詞で,「こっけいだ,興味深い,趣がある,美しい,すぐれている」といった意味をもつらしい。

中学校の古典においては「あはれ:しみじみとした趣」とともに「趣がある」という意味合いの代表的な古文単語だったと記憶している。

もう少し調べてみると,「をかし」,「あはれ」はどちらも平安時代における文学の基本的な美的理念だそうだ。

前者は”「あはれ」のように対象に入り込むのではなく,対象を知的・批評的に観察し,鋭い感覚で対象を捉えることによって起こる情趣(Weblioより引用)”だそうだ。

となれば,「あはれ」は対象にどっぷり入り込んで得た,しみじみとした感動,情趣といったところか。

 

これら単語を初めて目にした当初の私に比べれば,今の私はそれなりにそれなりの経験を積んで,必要不要問わず諸々の知識を身につけていると自負している。

だが,

 「『をかし』と『あはれ』の意味をお前は完全に理解できているか」

と問われると自信をもって「イエス」と答えることはできない。

(未だにようわからんな…)が本音なのだ。

でも,こんなようわからん言葉がなんとも形容し難い複雑な感情を表すのに便利だったりする。

これは,

 「曖昧な言葉で逃げている」

とか,

 「小難しい言葉を出して聞き手を強引に納得させる」

とかそういうことではなく(,とはいっても,私みたいに文全体の書き方が下手クソだとそう思われてしまうこともあるだろうけど),

 「『その言葉の定義自体が広域をカバーしていて微妙なところ』が感情の複雑さと絶妙に合致すると凄まじい威力を発揮する」

ということだ。

 

さて,ライブは今年リリースされたアルバムを中心に構成されていた。

コマーシャルでよく聞き慣れた曲で始まると,会場の観客たちは一瞬にして興奮の渦に巻き込まれた,のだと思う。

実は,私は曲に合わせて手を挙げて前後左右に振ったり跳んだり跳ねたりするのが苦手だ。

石像みたいにつっ立って黙って聴くのが好きなのだ。

ライブの類に参加したてのときは,このような「ノリ」をしないことで(こいつ,わかってねえな)とか,(会場にいるんだから盛り上がれよ)とか思われるんじゃないか,と不安だった。

だが,あるアーティストの語りをきっかけに現在はその心配から解き放たれている。

この「不安からの解放」についてココで説明すると話が発散してしまうので,その話題は次回に持ち越すことにする。

とにかく,最近の私のライブに望むスタイルは「狂喜乱舞」ではなく「(むむむ…)」だ。

 

目前の生演奏はCDで聴くのとほとんど違わず進んでいく。

寸分の狂いなく,既成の歌をなぞるように。

 

興奮して手をブンブン振り回す人,曲に合わせてとろけるように首をゆっくりと揺らしている人,私と同じく黙って聴いている人など,観客の様子はいろいろだ。

 

(本当に綺麗に歌うなぁ…)

そんな考えが頭を支配する。

 

やがて,思考の種が次々と飛び始める。

(一瞬後には消えてしまう音や声に,人は何故こうも興奮してしまうのかなぁ)

(本当に,斜め前の客は何故にこんなに興奮してるんだ)

(それにしても,歌,狂わないなぁ)

(前の前の客は狂ってるなぁ)

 

そして,私は演奏に聴き入っていないことを認識しだす。

(自分の身体から魂が抜けだして,会場の天井スレスレを鳥みたいに飛んで,この場を総観できたら良いなぁ)

(否,気持ちは既に飛んでるんだよなぁ)

(歌,狂わないなぁ)

(前の前の奴,やべーなぁ)

 

もう,全然歌に集中していないのである。 

いいのだ。雰囲気を楽しむのが私の姿勢だ。 

 

多少のトークを挟み,ライブは懐かしい曲のクラスタに移行する。

(ああ,これは小学校の卒業記念で合唱したっけなぁ)

(これは中学生のとき自分の部屋でCD聴いてたなぁ)

合唱練習に励んだ教室,合唱のパート分けで音楽の先生と対立した音楽室,音楽を垂れ流しながら寝っ転がっていた自室のベッドなんかが次々と思い出される。

 

記憶は「嗅覚」と最も直結していると聞いたことがある。

詳しくは知らないが,これは五感の中でも「匂い」だけが脳内で「理性のフィルタ」みたいなものを通さずに「本能」を司る部分を直接刺激するからだそうだ。

そして,「嗅覚」の次に記憶と深く結び付いているのが「聴覚」なのだという。

脳の仕組みは全く知らないながらも,演奏を聴きつつ(なるほど)と思う。

 

(この歌はあのときカラオケで歌ったなぁ。酔ってて音外しまくったなぁ)

私の意識は「メロディ」よりも「会場の高揚」よりも「自分自身の過去の記憶」を駆けているように思われた。

が,そんな中でも,かつて何度も聞いた曲となれば,無意識的に違和感に気づく。

 (あ,今のしゃくりの具合がCDと少し違ったぞ)

この既成と生演奏の違いを認識した瞬間に,突拍子もない考えが頭をよぎる。

 

「ああ,なんか書道の時間っぽいなぁ」

 

私の意識は記憶から妄想へとトリップする。

 

小学生の頃,私は書道が嫌いだった。

すなわち,(どうでも良いが)蘇った記憶は例によって負の感情であったということだ。

今現在,字がとっても下手クソな私は,当時も当然のごとく字が下手クソヤローだった。

毛筆となると特にひどくて,ダメダメ。

上手く書けない言い訳のように「そもそも,お手本通り字を書いて何の意味があるんだ」などと詭弁を弄する始末だった。

ここまでは全て事実だ。

 

ある日,書道の時間に担任がこんなことを言い出すのだ。

 「今日で,皆さんが持っているこの茶色い表紙のお手本帳を使うのは最後になります。そこで突然ですが,今日はなんと,その『お手本』を実際に書いた先生をお招きしています。皆さん拍手でお迎えしましょう」

 

(パチパチパチ…)

 

まばらな拍手の中,眼鏡に白髪のおじさんが登場した。

ベージュのチノパンに淡いブルーのシャツ,ブラウンのジャケットを纏う姿には清潔感があった。

先生は席に着く私達の方に顔を向けてはいるものの,我々より遥か後方,ずっと遠くを見るようにしてから,深々と一礼した。

 

 「では早速,先生にお手本帳○○ページの字を,ここで書いてもらいます。みなさん,椅子は持たずに前に集合!」

バタバタ走って前にでるもの,名前を呼ばれないと席を立たないもの,後ろで控えめにしながら先生の様子をのぞき込むものと,児童の個性は様々だ。

 「しーっ!」

ガヤガヤする空気に担任が静寂を促す。

 

日常で感じることのない緊張と沈黙の中,その先生はゆっくりと,そして力強く筆を動かしていく。

(うわぁ…)

(うめぇ…)

(すげぇ…)

感嘆詞や当然の形容詞がちらほらと聞こえてくる中,私は少し後ろのほうで斜に構えて様子を窺っている。

 

先生が静かに筆を置く。

そして,半紙を手に取り観衆に向ける。

 

そこには堂々としたお手本通りの文字が書かれていた。

 「すっげぇー,お手本通りだ!」

 「字,うめぇー!」

やんちゃな男子どもが叫ぶと,張り詰めた風船がパチンと割れて,教室は称賛の声や奇怪な叫び声で騒然とする。

 

(いやぁ,お手本と全く同じじゃん。面白くねぇ)

素直に感動することを知らずにふてくされる私。

 

 「次は,○○ページです」

生披露は続いていく。

 

筆を持つ,筆を置く,称賛。筆を持つ,筆を置く,称賛。…。

 

いくつめの単語だろう。

墨のつきが甘かったのか,それとも力の入れ方が違ったのか,書き上げられた文字はお手本と比べると「はらい」の部分が少しかすれて薄くなっている。

 「あ,ちょっと違う!」

 「下手だ!」

児童たちが難癖をつけだす。

先生は頭を掻きながら「ははは…,これも力強くて良くないかい?」と苦笑している。

 

そして私は,一般の意見に反して思うのだ。

(少しの違い,なんかようわからんが,ちょっとカッコいいんじゃないか…)

 

そう思ってみてみると,黒板に次々と貼られる半紙の文字とお手本帳には若干の違いが稀に見受けられるのだ。

「とめ」の強さ,「はね」の勢い,「はらい」の長さ,…。

「生の息遣いがどうだ」とか「臨場感がこうだ」とかの現場にのめり込んだことによる感動よりも,客観的にみた「既成」と「生」との若干の違いに何故だか感動している小学生の自分がそこにはいた…。

 

そんな馬鹿げた妄想を広げに広げているうちに,ライブは終了していた。

 

鳴りやまぬ拍手はアンコールの思い。

感動の理由はそれぞれ違っても,「まだこの空気から離れたくない」という願いは一緒だったろう。 

 

 「はーい,皆さんの拍手へのお返しに,先生がもう何個か特別に書いてくださるそうですよ」

そうして書かれた文字は,自分の好きな単語だった。

(あの言葉,書いてくれたらちょっとうれしいな)

そう思っていた。

自分が以前に少しうまく書けたから気に入っているのだ。

軽やかな筆の動きは堂々とした軌跡を残した。

 

心に刻まれた,

 「青い車

の三文字。

 

えぇ,えぇ。生演奏はやっぱり良いものですな。

ほとんど狂いなく美しい演奏できることが凄い。

冒頭にも言いましたが,その才能に嫉妬でありました。

 

そして,演奏に入り込んでフィーバーするよりも,客観的に演奏やらそれに盛り上がってる人たちやらを眺めるのが私の楽しみ方であると再認識した。

 

さらに,その中で生まれる「既知からの逸脱」が,何か知らんが私にとっての「をかし」だった。

何となくで良い,共感してくださる方はいらっしゃるだろうか。

 

「聴覚」で呼び寄せられた記憶の中で迷子になってヘンな妄想を膨らませてしまったが,大変良いライブでした。

 

嫌いだった書道も今となっては懐かしく,間違って少しやってみたい気もする。

そうそう,この国には「書初め」という文化があるらしい。

実家の何処かで眠っているであろう習字セットを引っ張り出して,やってみようかしらん。

そういえば,洗うということをサボってばかりだったから,セットの中の筆はいつもガチガチに固まって,頭が二つに割れたりしていたっけ。

 

筆は今でも変わらずに固まっているだろうか。

それとも,もうカビでも生えてしまっているだろうか。

はたまた,セット一式,捨てられているかもしれないな。

 

ちなみに,「私の敬愛する『動』の歌手が書道のお手本書き実演に来たら」の妄想も膨らんでしまったので,これはまたの機会にでも。

 

汚れを吸ったスポンジは泡が立たない

日常 道草

 

先日,約一年振りにとある小学校にお邪魔した。これはもちろん合法的に。

 

1-2年生,3-4年生,5-6年生と順番に一緒に遊んでもらったのだが,1-2年生はまあ腕白。3-4年生はそれに拍車がかかる。

ところが,5-6年生ともなるともう結構大人っぽかったりする。


私より背が大きくてがっしりとした男子もいれば,小奇麗で身なりや持ち物にも気を遣っていて少しつんとすましているような女っぽいもはや女もちらほらみえるのだ。

でも実際に話してみると男子は完全にまだガキだったり(,というか男はこれからもずっとガキなのだろうが),女子は恥ずかしがりつつ素直に会話してくれたりする。

でもやっぱり思ってしまうのは,「小学校高学年の女子はもはや女性」だ。

「『となりに大人の女がいる』と思うと緊張して仕事にならん」と,現場を共にした後輩も言っていた。

大人びてきて可憐だが,まだあまり社会に対する反抗を知らない。規律正しい小学校という空間で純粋無垢に勉学や諸活動に従事する。

美しき精神と麗しき容姿とを兼ね備えた女性は最強で,良い。

一応断っておくが,小学生がすきだということではないですよ。

大人よ,小学生の純粋さを取り戻せ。 

 

仕事の後には控室として準備された図書室に通していただいた。

 

懐かしかったね。

自分の通った学校じゃないけれど,やっぱり小学校の図書室には小学生が読むような本が沢山あって。

忍たま」,「エルマー」,「ズッコケ」。

気になる女子を追っかけて図書委員になって,本の整理整頓に明け暮れていた六年生の頃を思い出したりもする。

目に映る背表紙ひとつひとつが懐かしく思われる中,なんとなーく手に取ったのは「オズの魔法使い」の絵本だった。

(昔読んだなー,あんまり話覚えてねーけど。)

そう思って偶然開いたページをみて,衝撃を受けた。

首。生首が浮いてるのよ。髭を生やしたおっさんの首が。

え,そんな話でしたっけ?

犬,猿,雉じゃないにしろ,何かしらを仲間にした誰かしらがどうにかなる話だと記憶していたのだが,まず目に飛び込んだ絵が,青白いおっさんの生首。目つきが悪くておっかない。

小学校の図書室に置いていい類の本ですよね?

もう怖くなってしまって,素早く閉じてそっと棚に戻しておきました。

オズの魔法使い」。過去に一度読んだだけで知った気になっていたが,過去の知識は存外霞むものだ。

 

絵本にしろ小説にしろ教科書にしろ論文にしろ,何かを読んでその中にある考えや知識を吸収するということを,我々は意識せずとも毎日のようにやっている訳だ。

 

今月末に自分のこれまでのオベンキョウの成果を発表をしなければならなくて,最近はずっと,一度読んだ書物を再読したり,関連資料を集めて勉強したりしていた。

初めて読んだときは,どうもすっと頭に入ってこなくて,納得ができなくて,この一文には何時間も悩んだな,なんて思い出しながら。

そして,理解までに苦労したものでも,逆に比較的すんなり納得がいったものでも,一度自分の中に吸収してしまったものは,次の瞬間にはもう自分の中の常識になってしまっていることに気づく。

ところが,悲しいことに,それら吸収したはずのものの中には「知識の最終形(数学でいうなら,公式や定理のような実用的なものだろうか)」だけが常識になっているものも案外存在するものだ。

「あれ,これはどうやって吸収したんだったかな?」と結局はじめと同じだけ時間をかけて,同じような思考プロセスを踏むことさえあった。 

人間の脳みそは自分が思っている以上に機転が利いて賢いのかもしれない。その一方で,都合がよくていい加減でもあるのだ。

 

いい加減さと都合のよさには,次の過程で拍車がかかる。

 

(もう,完璧だ…!)なんて思って発表の準備,すなわち吸収した知識や考えのアウトプットに入ってみると,自分の中の「常識」たちに齟齬が生じることがある。

そして,(そんなはずは…)と考えなおして,書物に戻ってまた考えて,別の書物にあたって,とあれこれやって気づくのだ。

「常識」になっていた知識が間違っていることに。

余計なずる賢さが身についてしまって,自分が理解しやすいように勝手にカタチを捻じ曲げて,強引に脳みそに押し込むことが多くなっているようだ。

そんな自分にはもうウンザリしてもしきれない。

牛歩の如き速度でしか進まない準備に焦りを感じながら,満身創痍で臨んだ発表。ひとまず,終わってよかった,と思っておこう。

 

発表の帰り際には親しい友人と会ってきた。

 

知り合いの結婚式か何かで貰ったという皿がいらないというので譲り受けたのだが,箱も何もなくむき出しで鞄にブチ込んできたので,棚にしまう前にさすがに洗っておくか,と帰宅するなり台所へ向かった。

スポンジに水を含ませて,洗剤を垂らしてくしゅくしゅする。

泡立たない。

水を加えてくしゅくしゅするが,ダメ。

そういうときは,水をお湯に変えてスポンジをよく洗い,それからまた洗剤をつけることで対処するようにしている。

調べたことはないけれど,スポンジは油汚れを吸うと泡が立たないのだと思っている。

だから,お湯で油を溶かしてスポンジから追い出してやると良いのだ(,たぶん)。

キレイに洗って並べた皿は,なかなかにお洒落であった。友人に感謝。

 

間違った知識を吸収してしまっては,いざ知識を活用するときにどこかで辻褄が合わなくていけない。

汚れを吸ってしまっては,泡立てようにもそれは叶わない。

 

汚れに気づけば後からきれいにもできるけれど,古い汚れは落ちにくくなるし,繰り返し汚れればスポンジ自体ダメになるもの。

加えて,綺麗なものを吸ったはずなのに,いつの間にかそれが消えたり汚れに変わったりするいい加減さもあるのだから敵わない。

 

小学生とか中学生とか,若くて純粋なうちに,ひとつでも多くの正しい常識を大事に吸っておけばよかったな,なんて,今更思ってももう遅い。

 

巡る巡るは海のよう

回想 理数 妄想

 

負の要素が人を駆動する力というのは甚大だ。

 

成功や幸福なんかのポジティブな事象より,失敗,恐怖,失望などに突き動かされることの方が(少なくとも私は)多い。

 

 私にも,スポーツというものに打ち込み,仲間たちと更なる高みを目指して血と汗と涙を流すという身の毛もよだつ清清しい時代があった。

ああ,あのプレー,あの勝利,あの栄光。

と,思い出せれば良いのだが,蘇るのはミス,敗北,苦痛と負の歴史のオンパレードである。

脳裏にしつこく焼き付くは楽しい過去より辛いそれ。

ひとえに,これは私が競技を成功や勝利で終えたことがないからかもしれないが。

「記憶はいつか妄想に変わる」と誰かが言っていたけれど,それならもう少し楽しい世界がみたい。それまでには,もう少し時間がかかりそうだ。

 

例えば,旅に出るとする。

 

私は,目標の達成のため分刻みのスケジュールをこなすような旅は嫌いだ。行楽を任務にしてはならないと思うのだ。

旅には明確な目的などなくてもよいと思っている。気の合う仲間と行動を共にできればそれでよい。終わり。

それでは話が始まらないので,適当な目的地を設定することにする。そうだな,じゃあ「ダム」だ。

さあ,車に乗っていこう,友達みんなで(乗り込んだ人数は,,,訊かないでくれ)。

大きな国道から県道,市道,獣道と車を走らせ三時間。ナビに従い辿り着いた山中は,枯葉ばかりの薄暗い空き地。

ダムがない。人工的な建造物はおろか,ため池も,水溜りすらそこにはないのだ。

そんなとき,私と,隣りのたった一人の友はどうするか。

二人して腕を組み,足元の落ち葉をじっと睨みつける。虫食いの穴が開くほどに。やがて重い首を持ち上げ,難しい顔を向かい合わせるとようやく口を開くのだ。

「ダム,ねえじゃん」,「おいおい,マジかよ」

そういって,笑う。馬鹿みたいに。

車の中ではふざけあっておもしろおかしい話をしても「今のは言い回しがイマイチだ」とか,「落ちが少し弱いな」とか,なかなか笑わないでいるのに。

不幸は人を幸せにする。ニワトリと卵のような話だが,案外そうなのかもしれない。

不幸せで笑うのは,人間のもつ本能的な自己防衛からだと私は思う。

 

旅には失敗がつきものだ。とりわけ,私の場合は。

 

失敗といえば,雨もそうだ。

晴れが良い天気,雨は悪い天気,という言い方は実は一般に推奨されない。

その判断は個々人の立場に寄るからだ。

雨を必要とする人,とりわけ農家の方たちは,私のような今なお原付を乗り回す輩クズとは異なる基準に違いない。

ひとまず,良い悪いの議論は気象予報士の皆様,究極的には哲学者の皆様にお任せするとしよう。

とにかく,私が野外を観光するとなると,雨が降る。

 

私がアルバイトで塾の講師をしていた頃だ。

 

高校生からこんな質問をもらったことがある。

「地球上の物体は重力加速度で加速されるはずですけど,雨粒は結構上から落ちてくるのに速度はあまりでないですよね?何故ですか?」

この将来有望な大型新人天才科学者に向かってなんと初歩的な質問か。

「えっ,えーっと,,,そうだな。それはきっと,ある程度加速されたら空気抵抗がはたらいて,え,式?それは今はぱっと出てこないけど,,,まあ,ほら,加速されなくなるんだよ,たぶん。じゃなくて絶対,たぶん」

その日のうちに家に帰って調べると,私の苦し紛れの回答はほとんど正しかったと記憶している。空気抵抗と雨粒の変形,分裂やらが関係するんだったかな。

粒径が大きいほど速度も速くなるらしいが,大粒の雨は秒速10 mだそうだ。時速に直すと 36 km,かの有名な陸上選手,ウサイン・ボルトと同じくらいらしい。

気象学のテキストを引っ張り出して調べると,積乱雲の雲底はだいたい600 mくらいのようだ。空気抵抗も変形も分解も無視するために,この高さから質点を自由落下させることを考えると,地上についたころの速度はなんと,秒速108 m,時速390 kmだそうだ。これは相当危険じゃないか?

時速約400 km。皆さんは何を思い浮かべただろうか。バイクや車,新幹線だろうか。

正直,私は具体的には何も思いつかなかった。検索してしてみて「バイク」「車」「新幹線」のワードが出てきたことに驚いた。

そんな中,この速度が自然界で存在しているというから,さらに驚いた。

金星のスーパーローテーションだ。金星上空では,時速400 kmで風が吹き続けているらしい。

地球の対流圏の上(上空13000 m)でも風速は時速250 kmくらいだから,,,てもうよくわからん。

とりあえず,雨が程よい速度で落下してきてくれてよかった。

 

地球上の雲は,通常時速50 kmくらいで流れているらしい。

 

「そんなに速くはみえないよ」

と友人に反発されたことがあるが,「新幹線を遠くからみるとゆっくりにみえるけど,近くで走ってたらめちゃめちゃ速いだろ?」と例えたら納得してくれた。

 

例え話に納得してもらえるのは,うれしい。

「匂いで別の何かがぱっと連想されることってあるじゃん?」

「うーん,俺その感覚がわからんのよ」

「例えば,金木犀の匂いがしたら,秋だなぁ,って思うとかさ」

「それは確かに」

 

はい,うれしい。

 

「ほら,やましいことは無いのに『あんた,浮気してるでしょ』とか疑われると焦るじゃん」

「うーん」

「悪いことはしてないのにパトカーを見ると緊張するのと一緒だよ」

「ああ,なるほど」

 

はい,うれしい。

 

うれしいことばかり書くと,何だか申し訳ない気がしてくる。

俺にこんなにいいことがあってはいけないように思えてくる。

 

本当は,量や回数は平等じゃないにしろ,幸と不幸はどちらも私の足元に巡ってくるのかもしれない。

秒速何 mという速さで循環する陽のあたる海洋表層流は,暗黒の世界を1000年2000年のスケールで巡るような深層流で駆動される。

深くにある負の感情を力にできないと,うすっぺらいが目まぐるしく変化するこの世界では生きていけないのではないか(生きていきたいかは別として)。

 

こうやって,自分の後ろ向きを肯定することをお許しください。

そして,(この文はいったい何処へ向かうんだ…)と不安にさせたことをお許しください。

でもそのほうが,気の遠くなるくらいに暗くて広いこの世を巡る感じが出るでしょう?

 

無事に巡り巡って本題に戻ったのだから,ひとまず,良しとしてください。